幸田文の随筆集 『どうぶつ帖』は犬や猫など動物との付き合いを綴っている。

それぞれの動物に対して、作家のこころが持って行かれてしまうさまに、どれも読み終わると、ふーっと大きく息をつきたくなる。

介護に先立つ、こころの置き方

その一遍に“子猫”がある。
あるとき、作者は2匹の猫をもらいうけた。どちらも猫らしいしぐさが愛らしいが、片や器量よしで人なつっこく、もう片方は鼻がとんがって眼がつりあがり、毛は薄く、唸り声をあげて人になつかない。おまけに粗相をするものだから、ますます可愛くないと思いながら医者に見せたところ、体の弱い猫がおなか具合の悪い時に粗相をするという。弱く生まれついているのだからと、手をかけて可愛がっているうちにつり上がった眼は柔らかくなり、人を信頼して甘えるようになった。

作者自身、聡明でかわいがられた姉と、一人息子で大事にされた弟に挟まれ、自分は「みそっかす」であると感じながら育った経緯があったから、すねっ子や不器量っ子に寄り添う気持ちはあったのだが、2匹の猫に対して抱いた感情は、ひどくいい加減で中途半端なものだった、と気づくのだ。
自分は愛されないという恨みの上に辛うじてもった愛情など、平等なおおらかな愛とは言えない。だめだなあ、と嘆息しながら何十年か経てきた時間を考える。

作家49歳の嘆息である。つられるように私もふーっと嘆息した。
しかしその意味は、幸田文のそれとは異なる。体が弱く不器量な猫を可愛がるように、ひねくれ、曲がった自分に手をいれて可愛がってもいいのではないか。そんなことに気がついて長年の捻じれがヒラリと解けた。生きやすさをひとつ、手にいれた。年を重ねるとシワはよるし、弛んでくるしと、あまり良い事はないが、時折こうした出会いもある。

さて、本題である。先に挙げた話は介護とはまた少し異なるが、その心持には近いものがあるように思う。

介護をするにあたっては、「いつかは自分も通る道」「お互い様」という気持ちが大切である。そうした気持ちがなければ、介護される側は肩身の狭い思いをするだろう。
介護をする立場になると自分が試される。介護はリトマス試験紙に似ている。
家族の在り方についても、介護する人とされる人の本音の部分でも、やさしさの甘辛度合いが見えてくる。 

知人に、嫁ぎ先の父母、夫、実家の母と4人を介護した方がいて、その経験から「介護される側は“怒らない、逆らわない、大声を出さない”ことが大切だ」とおっしゃる。そうすることで、どれほど介護する側が楽になるかわからない。ところがドッコイ、できないのである。どうでもよいことに“怒り、逆らい、大声あげて”火種を作っていることが多く、寛容どころか、曲がった何かが相手の曲がったものに絡みつき、恨みつらみの負のスパイラルが生まれ、手に負えなくなる。

“寛容”が負のスパイラルを止める

介護を例にあげたが、このような心の持ち方については、働き方についても同様である。
例えば、様々な働き方を受け入れていく中で、制度はなくてはならない。しかし、たとえ制度が整っていたとしても、いつも設計通りにいくわけでもない。制度の隙間があったとき、それを埋める寛容さ、平等なおおらかな気持ちがなかったなら、隙間を通るのは北風だけになってしまう。こういった状況で鍵となるのは、チームワークとコミュニケーション。また、レジリエンスの考え方が一般化されることも有効だと思う。

我身に巣食う曲がったものを可愛がってみよう。曲がったものなどないなら、それは目出度いことであるが、自分がかけているフィルターで見えないこともある。そういったフィルターは現実をゆがませ、ネガティブ感情を生み出す原因となる。そうならないためにも、自分のフィルターの存在を意識して、手入れをするのである。ダメな時は“だめだなあ”と肩の力を抜くのもいいだろう。
そうすれば自ずと相手や、多様性を許容できる寛容さも生まれるのでないだろうか。
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