映画“利休にたずねよ”で利休と茶の湯の世界が注目を浴びた。ちょっとギトギトした海老蔵が、渋い利休をどう演じるのか興味が湧き、久しぶりに映画館に足を運んだ。史実に忠実であるかは別として、ストーリーとして面白かった。
利休が教えてくれること。もてなしのキーワードは“自己重要感”
茶室のにじり口の発想は高麗の美女を匿う漁師小屋の戸口であると仄めかす。利休の茶の心の原点がその高麗人との出会いにあること。彼女が大切にしていた緑釉の香合に、毒殺してしまった彼女の小指の爪を入れ、肌身離さずにいた。切腹の日にその爪を炭火で荼毘に臥し最後の茶を点てた、などなど美を愛し、時代に立ち向かい、新しいものを創造する行動的な利休を描いていた。“わしが額ずくのは、ただ美しいものだけだ”と秀吉への抵抗を表している。海老蔵はギトギトと渋さを両方演じていた。

 そもそも戦国の武将達がこぞって夢中になり、今も愛される茶の湯の魅力とは何か。 
 茶を飲む風習が始まったのは9世紀頃からとされる。禅宗の寺院、中国からの文物及び茶を飲むことが足利義政の時代に出会う。その後禅の精神性も加味され茶の湯の基礎ができた。
 足利時代に“御成”といわれる饗応があった。“御成”とは宮家や将軍などが家臣宅を訪問することで、主従関係の確認の目的もあった。珍しい輸入品などの進物も用意され、料理も山海の珍味を揃え、品数もたっぷりと用意してもてなした。将軍を自宅にお招きするとは名誉なことだ。江戸時代には“御成門”の地名にも残るように将軍のための専用門を作ったり、お茶室を作ったりとエスカレートした。その後将軍の御成には莫大なお金がかかるので家光の頃には行われなくなった。財力でもてなし、人を動かす時代だ。

 利休は秀吉に仕える前は信長の茶頭(茶事を取り仕切る人)をしていた。信長が安土城へ家康を招いた時の饗応の役は明智光秀だった。光秀は家康の接待に心を配り、山海の珍味はもとより、唐傘等は京都や堺から買って準備した。しかし信長は“将軍家の御成のようで行き過ぎだ。費用もいくらかかったか分からない“と怒り、饗応役は解任されてしまう。実際は行き過ぎでもなかったようだが。 光秀謀反の理由は諸説ある。解任前のいろいろな出来事に加え、饗応への叱責で怒りが爆発したのではないかという。家康饗応から20日後に本能寺の焼き打ちで信長は自刃している。信長が所有していた名物茶道具もほとんど信長と供に燃えてしまったらしい。戦場でも茶の湯をやっていたということか。緊張した戦場でこそ、茶の湯の本領、名物茶器の本領が発揮されたのだろう。お手軽、安物、偽物では癒されない。

 信長は名物茶道具が大好きだったとされているが、多くは足利義政が名物として制定し所蔵していたもので、その蒐集は権威の集約を目的としていた。財力だけではなく、権威がないと手に入らないものを手にいれ、時に分け与えるなどして人を動かした。信長の茶会は小さな暗い茶室ではなく、広間で行う堂々としたものだった。

 御成でのもてなし、光秀の謀反、信長の道具蒐集、茶の湯の隆盛の向こうに見えるキーワードのひとつは“自己重要感(優越感、いい気分、尊厳)”、マズローが言うところの“承認の欲求”ではないか。もてなしの本質は自己重要感を高めることにあり、その反対は自己重要感を下げること、拒否にある。結果として人は動く。

 特定された空間と選ばれた人・物で行われる茶会。高価な道具類を持ったり、与えたり、時には奪ったり、と財力、権力、教養を示す場として茶の湯は重宝で、茶の湯に通じていることは高貴な人や武将達の付き合いに必須だった。武力や財力だけでは天下人にはなれない。政治力や文化面でも承認される人物でなければならなかった。
 そんな彼らに茶の湯の指南が出来るほどの利休は人間的な成熟度、トップ達との顧客維持力、政治力、茶の湯の専門知識、目利き、利休ブランドの茶室や道具類にみる創意工夫力、情報力、後輩への指導力を兼ね備えた優秀な茶頭として活躍した。 

 さて、1500年代へのタイムトリップから現代に戻る。 
 ありがとう、と身近な人から言われる。いい気分。
 ありがとう、さすが、あなたじゃなくちゃ、とお客様から言われる。優越感。
 ありがとう、と天皇陛下から言われる。名誉なこと。
 その人の社会における相対的な評価で相手の感動の度合は変わる。相対的な評価を上げるも一手。相手を知る努力、心配りの積み重ねは今日から始められる。“気づく人”となることで、“あなたでなくては”“あなたなら”となるはず。これは自分への言葉でもある。

 今日、一杯のお茶を“感動するほどの”という思いですすめてみよう。
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