最近、立て続けにとある全国週刊誌から年金の将来見通しに関するコメントを求められた。

以前の本コラムでも指摘しているとおり、年金制度は現行の負担と給付を維持する限り、持続不可能だと判断せざるを得ないので、不本意ながら極めて悲観的なコメントとなってしまった。ただ、その本旨は別のところにあるので、改めて解説しておこう。
変化できる者は生き延びる

年金制度の財政方式の歴史

2014/09/03付「平成26年の年金財政検証を検証する」
2014/12/15付「大丈夫? 我らの年金 運用を株式にシフト」

あまり知られていないことであるが、日本の年金制度は、厚生年金が発足した1944年当時は完全積立方式を採用していた。支払った保険料と受け取る額のバランスを同一世代内で取っていたのだ。つまり、ある世代が支払った保険料とその運用益を同じ世代が受け取るので年金財政が安定し、世代間の不公平も起こりようがない制度だった。

しかしながら、制度の端境期にはどうしても救済案件が生じてくる。新制度加入期間が短く、年金受給年齢に達した人たちだ。彼らに杓子定規の対応をしていては、年金が支給されないか、少額の支給となってしまう。そのために支払った保険料に比べて比較にならないくらいの年金を受給できるように運用制度が変更された。いわゆる政治的配慮が施されたのだ。

年金の受給者が少ないうちは何とか制度を維持することができても、年金財政の収支が段々不均衡化してくるので、いつかは必ず行き詰まってしまう。そこで、1954年の新厚生年金保険法では、受給者の増加や平均寿命の延びに伴い、完全積立方式を放棄して修正積立方式、つまり受給世代の給付はその時点の現役世代から徴収した保険料で賄うことを基本としながらも、余剰の保険料を将来の給付原資として積み立てておく、半自転車操業へと変更されていった。

現在の制度運用は、賦課方式という言い方はされていないが、年金給付額を保険料収入だけでは賄えない財政構造となってしまっていることから、実質的には修正積立方式から賦課方式へ移行していると言っても過言ではない。現在、積立方式時代の残滓としての年金積立金百数十兆円は、その絶対額の大きさから「こんなに莫大な積立金があれば年金制度も安泰だ」と認識されがちだ。しかしながら、創設時の完全積立方式を維持していたら、現在その額は500兆円~700兆円が必要だと言われているから、何ら将来を担保するものとはならない。

だからという訳ではなかろうが、年金積立金管理運用独立法人(GPIF)は平成26年11月から積立金運用の基本ポートフォリオについて、国内株式25%・外国株式25%・外国債券15%と、実に積立金の65%をリスク(変動幅)の大きいアセットで運用することにしてしまった。

積立金の65%といえば、その額90兆円である。機動的で戦略的な運用が完璧になされない限り、株式相場や為替相場の悪影響をもろに受けてしまうだろう。常在戦場の運用環境の中、常に±50%のボラティリティを覚悟しておかなければならない。マーケット・ニュートラル戦略、マネージド・フューチャーズ戦略といったヘッジファンドの運用手法でリスクをヘッジする戦略が駆使できれば別だが。

年金制度の変化にフレキシブルな対応を!

今後、人口構造の変化や経済成長の鈍化を主たる要因として、少なくとも現在の年金給付水準(所得代替率50%)を維持していくことは難しくなる。場合によっては、完全賦課方式、つまり現役世代からの保険料収入だけで年金給付を賄うという荒業が強行されることも否定できないだろう。このように、年金制度は維持されつつも、給付される年金は間違いなく減らされていく。特に、若年世代への影響は深刻だ。

公的年金の有り様は大きく変わってしまった。人口構造等の社会環境の変化にも対応しなくなった。これらの最も大きな原因は「政治力学」だが、制度と実態がかい離してしまった以上、不本意ながら我々国民が変わらざるを得ない。60歳~65歳を定年と考え、それ以降は年金生活、という刷り込まれた発想を捨て去ることが必要な時代に立ち至ったのかも知れない。もっとも、世代間の対立を超えて、将来持続可能な社会保障制度への改革を政治的に要求していくこと、が国民の使命なのだが。
チャールズ・ダーウィンは「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残るのは、変化できる者である」という言葉を残している。本質を捉え、時代の変化に柔軟に対応していきたいものだ。
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