9月27日の「御嶽山」の噴火によって、57名もの尊い命が失われ、未だ6名の行方不明者がおられる。唯々ご冥福をお祈りするばかりである。
近年、地震・噴火・津波など、大規模な自然災害が襲ってくることが多くなったような気がする。これらの災害は、従前からの確率統計で使われてきた「正規分布」に従い、「ほとんど起こらない」と考えるより、正規分布では起こり得ない事象が実際にはある程度の確率で起こってしまうと捉える「ベキ分布」を用いて、「我々の思っている以上の頻度で起こってしまう」と考えれば理解しやすい。このように、たびたび起こり得る自然災害に我々はどう向き合えばよいのだろうか?
近年、地震・噴火・津波など、大規模な自然災害が襲ってくることが多くなったような気がする。これらの災害は、従前からの確率統計で使われてきた「正規分布」に従い、「ほとんど起こらない」と考えるより、正規分布では起こり得ない事象が実際にはある程度の確率で起こってしまうと捉える「ベキ分布」を用いて、「我々の思っている以上の頻度で起こってしまう」と考えれば理解しやすい。このように、たびたび起こり得る自然災害に我々はどう向き合えばよいのだろうか?
私事で恐縮であるが、長崎県の「雲仙普賢岳」噴火災害の渦中、平成5年から3年間に渡り、島原市にある県の地方機関に勤務した経験がある。平時であれば、雲仙は日本で最初の国立公園、島原も風光明媚で水や食べ物も美味しい温暖な土地柄である。しかし、私が赴任した頃は、火砕流や土石流が頻発し、未だ復興というより、災害と人間の闘いの最前線という様相を呈していた。
火砕流や土石流の警戒警報音が昼夜を問わずけたたましく鳴り響く中、災害用の作業服を身に纏った職員数百名が、1年365日24時間体制の現地災害対策本部等で決死の思いで働いていた。「山体が膨張しつつあり、いつ大爆発が起きるかわからない。」「眉山が崩壊する(島原大変肥後迷惑と言われた江戸期の大災害の再来)。」等々のデマまで流れた。殉職を覚悟していた職員も多かったと思う。
もちろん、一番大変な思いをしていたのは、住民の方々である。いつ沈静化するとも知れない噴火活動の下、命の危険を感じつつ、不便な仮設住宅などでの日常生活を強いられたご苦労は大変なものであった。火山灰が降り積もった通学路を、ヘルメットを被り隊列を組んで通学していた子供達は本当に痛ましく可哀相であった。
そして、ここで最も記しておかなければならないのは、災害派遣で島原城にキャンプを張り、24時間体制で火山活動の監視や巡視の重責を担った自衛隊員をはじめとする警察・消防の皆さんのことである。職責とは言え、迫り来る二次災害の危険の中、過酷な現場で救助活動や巡視活動に立ち向かう姿に本当に頭が下がる思いだった。
今回の御嶽山の噴火でも、災害派遣の自衛隊員、各地の消防職員、警察官などの皆さんが、我が身を投げ打って救助活動に奮闘していた。「二次災害が起きる前に止めるべき」とハラハラしていたのは私だけではあるまい。メディアには彼等の奮闘ぶりももっと取り上げて欲しかった。
大きな災害になれば、常に多くの人たちの直接・間接の犠牲が伴ってしまう。そうならないための災害に対するリスクマネジメントの要諦は何なのだろう。
まずは、情報開示と責任の明確化ではなかろうか。火山噴火を例にとれば、「水蒸気爆発や火砕流とは何か」等を啓発することであり、何より大切なのは「噴火予知ができるか、できないか」の告知である。もし、予知できないのであれば、そのことをハッキリ伝えるべきだ。あたかも予知できると勘違いさせるような表現はすべきではない。予知できないならできないと断った上で、日々の火山活動の状況をつぶさに情報として開示すべきだ。責任を負う覚悟をもって。あとは、国民がそれらの情報を自身の知見でどう捉えるのかに収斂せざるを得ない。
次に、国民が自然への知見をもっと高めることが必要なのではないかと思う。「雲仙普賢岳」は1500m級の山だが、今回の「御嶽山」は3000m級の山岳である。そこら辺りのハイキングではないのだ。素人の私が考えても危険に満ちている。高山病の危険性はもとより、急激な気象の変化、雪崩、地震、獣害など、平地とは比較にならないリスク要因が潜んでいるはずだ。登りやすい山とは言え、きちんとした予備知識と、覚悟を持って楽しむべきだろう。
最後は、自身の経験や講習会等で、山岳のリスク・エクスポージャーの低減方法を身につけることが有用だろう。例えば、頂上での滞在時間の短縮、ガレ場や尾根筋といった危険個所の短時間での踏破、雪崩を意識した危険時間帯の踏破の回避など。やはり、それ相応の準備が不可欠だろう。
これらの対策を施しても事故・災害は起きる時には起きるのである。100%災害を防ぐことは不可能だが、一人ひとりが最大のリスクを想定しながら全知全能を傾けて行動することが肝要だ。
ここまで噴火災害を取り上げてきたが、私が最も心配するのは原発のリスクマネジメントである。
ご承知のとおり、福島原発は地震による津波で破壊され、現在においても人智の及ばない状況となっている。国内の原発を廃止するにせよ再稼働するにせよ、耐用年数が到来すれば廃炉にする必要があることは論を待たない。ところが、廃炉の方法・放射性廃棄物の処分場など、肝心な部分に全く目途が立っていないのが実状なのである。平時の状態であっても、廃炉には20~30年の期間を要し、コストも莫大で一基当たり500億円は下らないと言われている。まして、今回のような災害による事故がひとたび起これば、その社会的コストは計り知れないものがある。今後は、最低でも人間がコントロールできることを前提とした電力政策を採るべきではなかろうか。
現代に生きる我々は、無責任な状態を作り出し、将来世代に後始末を先送りするようなことがあってはならない。刈り取れる確信がない種は蒔くべきではない。
アインシュタインが「第三次世界大戦でどのような兵器が使われるのか、私は知らない。だが、第四次世界大戦は石と棒によって戦われるだろう。」と予言しているそうである。その言葉は、我々に対する偉大な物理学者の重大な警告ではなかろうか。
火砕流や土石流の警戒警報音が昼夜を問わずけたたましく鳴り響く中、災害用の作業服を身に纏った職員数百名が、1年365日24時間体制の現地災害対策本部等で決死の思いで働いていた。「山体が膨張しつつあり、いつ大爆発が起きるかわからない。」「眉山が崩壊する(島原大変肥後迷惑と言われた江戸期の大災害の再来)。」等々のデマまで流れた。殉職を覚悟していた職員も多かったと思う。
もちろん、一番大変な思いをしていたのは、住民の方々である。いつ沈静化するとも知れない噴火活動の下、命の危険を感じつつ、不便な仮設住宅などでの日常生活を強いられたご苦労は大変なものであった。火山灰が降り積もった通学路を、ヘルメットを被り隊列を組んで通学していた子供達は本当に痛ましく可哀相であった。
そして、ここで最も記しておかなければならないのは、災害派遣で島原城にキャンプを張り、24時間体制で火山活動の監視や巡視の重責を担った自衛隊員をはじめとする警察・消防の皆さんのことである。職責とは言え、迫り来る二次災害の危険の中、過酷な現場で救助活動や巡視活動に立ち向かう姿に本当に頭が下がる思いだった。
今回の御嶽山の噴火でも、災害派遣の自衛隊員、各地の消防職員、警察官などの皆さんが、我が身を投げ打って救助活動に奮闘していた。「二次災害が起きる前に止めるべき」とハラハラしていたのは私だけではあるまい。メディアには彼等の奮闘ぶりももっと取り上げて欲しかった。
大きな災害になれば、常に多くの人たちの直接・間接の犠牲が伴ってしまう。そうならないための災害に対するリスクマネジメントの要諦は何なのだろう。
まずは、情報開示と責任の明確化ではなかろうか。火山噴火を例にとれば、「水蒸気爆発や火砕流とは何か」等を啓発することであり、何より大切なのは「噴火予知ができるか、できないか」の告知である。もし、予知できないのであれば、そのことをハッキリ伝えるべきだ。あたかも予知できると勘違いさせるような表現はすべきではない。予知できないならできないと断った上で、日々の火山活動の状況をつぶさに情報として開示すべきだ。責任を負う覚悟をもって。あとは、国民がそれらの情報を自身の知見でどう捉えるのかに収斂せざるを得ない。
次に、国民が自然への知見をもっと高めることが必要なのではないかと思う。「雲仙普賢岳」は1500m級の山だが、今回の「御嶽山」は3000m級の山岳である。そこら辺りのハイキングではないのだ。素人の私が考えても危険に満ちている。高山病の危険性はもとより、急激な気象の変化、雪崩、地震、獣害など、平地とは比較にならないリスク要因が潜んでいるはずだ。登りやすい山とは言え、きちんとした予備知識と、覚悟を持って楽しむべきだろう。
最後は、自身の経験や講習会等で、山岳のリスク・エクスポージャーの低減方法を身につけることが有用だろう。例えば、頂上での滞在時間の短縮、ガレ場や尾根筋といった危険個所の短時間での踏破、雪崩を意識した危険時間帯の踏破の回避など。やはり、それ相応の準備が不可欠だろう。
これらの対策を施しても事故・災害は起きる時には起きるのである。100%災害を防ぐことは不可能だが、一人ひとりが最大のリスクを想定しながら全知全能を傾けて行動することが肝要だ。
ここまで噴火災害を取り上げてきたが、私が最も心配するのは原発のリスクマネジメントである。
ご承知のとおり、福島原発は地震による津波で破壊され、現在においても人智の及ばない状況となっている。国内の原発を廃止するにせよ再稼働するにせよ、耐用年数が到来すれば廃炉にする必要があることは論を待たない。ところが、廃炉の方法・放射性廃棄物の処分場など、肝心な部分に全く目途が立っていないのが実状なのである。平時の状態であっても、廃炉には20~30年の期間を要し、コストも莫大で一基当たり500億円は下らないと言われている。まして、今回のような災害による事故がひとたび起これば、その社会的コストは計り知れないものがある。今後は、最低でも人間がコントロールできることを前提とした電力政策を採るべきではなかろうか。
現代に生きる我々は、無責任な状態を作り出し、将来世代に後始末を先送りするようなことがあってはならない。刈り取れる確信がない種は蒔くべきではない。
アインシュタインが「第三次世界大戦でどのような兵器が使われるのか、私は知らない。だが、第四次世界大戦は石と棒によって戦われるだろう。」と予言しているそうである。その言葉は、我々に対する偉大な物理学者の重大な警告ではなかろうか。
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