★前回までのあらすじ
工場の若手メンバーと残業削減プロジェクトチームを立ち上げた春代。活き活きとした表情を見せる若手とはうらはらに……
このコラムは、人事部で働く人々にインタビューし、メンタルヘルス対策にかける思いを中心に、その人生の一端を「物語」仕立てにしたものです。(※文中の名称はすべて仮名です)
工場の若手メンバーと残業削減プロジェクトチームを立ち上げた春代。活き活きとした表情を見せる若手とはうらはらに……
このコラムは、人事部で働く人々にインタビューし、メンタルヘルス対策にかける思いを中心に、その人生の一端を「物語」仕立てにしたものです。(※文中の名称はすべて仮名です)
メンタルヘルスのラインケア研修にて
「実際問題、仕事があるんだから。やらなきゃどうしようもないだろう」メンタルヘルスのラインケア研修に集められた管理職の一人が、講師に対してそう言い放った。
オブザーブしていた春代は、半ば「やっぱり……」という思いで、密かに頭を抱えた。
「仕事がある。はい、それは素晴らしいことですね。忙しいというのは、御社の製品にそれだけニーズがあるということですから」
業務委託しているEAP(従業員支援プログラム)から呼んだベテランの女性講師は冷静に、そしてにこやかにそう答えている。
「長時間残業はリスクっていうけど、仕事を断ったら、お客から契約を切られるだけ。そうしたら売上がどんどん減る。それこそ会社存続のリスクだよ」
「俺たちが若手の頃は、這いつくばってでも仕事とってこいって言われたよなぁ。こんな時間でも対応してくれるの?!ってお客のほうも感激して、そっから信頼関係が生まれるっていうか」
「残業の時間にさ、先輩たちから、ホントのノウハウっていうか、ワイワイやりながら色んなこと教えてもらったよな」
参加者たちの顔を見回すと、発言していない者も、多かれ少なかれ、それらの意見に同意しているようだ。現場の管理職は現場の売上を死守すること、予算を達成することを至上命題として、日々奮闘しているのだ。
「皆さんのご意見はわかりました。でも、長時間労働がなぜリスクなのか、まずは聞いていただけますか。それからまた、議論いたしましょう」
講師のあくまで冷静な言葉に、管理職たちは口をつぐんだ。研修なんだし、ともかく聞いてやろうか、という顔をしている。
「長時間労働には、大きくふたつのリスクがあると考えてください。ひとつは法的なリスクです。そしてもうひとつが、心身の健康を損なうリスクです。法的リスクのほうも、また大きく分けてふたつのリスクがあります。ひとつは労災のリスク、もうひとつが損害賠償のリスクですね」
講師はそんなふうに話し始めた。
【法的リスク】
・月100時間を超える時間外労働や、心身障害発症前2~6ヶ月に1ヵ月あたり80時間を超える時間外労働をしていた場合、心身障害を発症すると、業務との関連性は強いとみなされる。
・労災認定基準では、発症前の1ヵ月に160時間を超えるような残業、もしくは発症前の3週間に120時間を超えるような残業をしていた場合は、「特別な出来事」とみなされて、その事実のみで業務による心理的負荷は「強」となる。
・精神障害で労災認定されれば、治癒するまで労働基準法により解雇制限がかかる。
・自殺や脳障害等で働けなくなった場合、または休職満了退職に意義ありとしてもめた場合などには、訴えられるリスクもあり、損害賠償請求され、会社側の過失となれば、億単位の非常に高額な賠償金を支払うケースもある。
【心身リスク】
・過重労働と脳・心臓疾患の発症との関連性が強いという医学的知見が得られている。時間外労働が月45時間を超えて長くなればなるほど、その関連性は強まる。
・過重労働のストレスにより、自律神経系と内分泌系が刺激され、ストレスに対抗するために交感神経が活性化する。すると、アドレナリンやノルアドレナリンといったホルモンの分泌が高まり、血圧上昇、脂質異常、血糖値上昇などを引き起こす。
・長期間にわたってその状態が続くと、高血圧症や糖尿病といった疾患を発症し、動脈硬化が促進して脳梗塞や心筋梗塞のリスクを高める。
・メンタル面では、ストレスや睡眠不足により自律神経が乱れ、交感神経活性の緊張状態が続くことでセロトニンなど気分を安定させるホルモンの分泌が抑制される。
・長期間の緊張状態は、理性や集中力・判断力を司る前頭葉の血流を悪化させ、さらに感情や本能を司る偏桃体の活性化を招くことで感情が不安定になる。
・そうした脳の機能障害がうつ病を引き起こす。
「今お話ししたことは、『気合が足りないやつがウツになる』『俺たちが若い頃は寝ないで頑張ったものだ』といった精神論で語るべきものではなく、法律、または心身のメカニズムに裏付けされた事実です。この事実から目を背け続けると、『つらい』と口に出来なかった将来ある若い社員が死を選ぶといった、絶対に起きてはならないことが起きるんです。皆さんは、この事実をふまえ、縁あって託された部下たちを、若い命を、どう扱うのか、真摯に考えなくてはいけないのです」
管理職たちは、静まり返っていた。どう受け止めているのか……春代は管理職たちの顔を不安な気持ちで見まわした。
水を打ったようにしんとした会場に、ポンッと小石を投げるように、講師が突然明るい声で言った。
「でも、安心してくださいね。心身の健康を守ることと、お仕事の生産性は、比例しますから!それが健康経営の考え方です」
管理職たちは、その声の明るさにハッとしたように、一斉に顔を上げた。
- 1