このコラムは、人事部で働く人々にインタビューし、メンタルヘルス対策にかける思いを中心に、その人生の一端を「物語」仕立てにしたものです。(※文中の名称はすべて仮名です)
★前回までのあらすじ
冬美が考えられる精一杯のものを詰め込んだ資料は、人事課長の一之瀬の怒りを買い、提案できないままに。そして、腹いせのように冬美に次々と業務が降りかかる日々が始まった・・・。
★前回までのあらすじ
冬美が考えられる精一杯のものを詰め込んだ資料は、人事課長の一之瀬の怒りを買い、提案できないままに。そして、腹いせのように冬美に次々と業務が降りかかる日々が始まった・・・。
大窪との再会
看護師の稲田から呼ばれたとき、冬美は大量の仕事に忙殺されていた。人事課長の一ノ瀬が、日々、業務時間内にはとても終わらない量の仕事を振ってくる。もともとは他のメンバーの担当だったいくつかの仕事まで、冬美の担当に付け替えられた。見かねたメンバーが「日野原さんに担当を変えていただかなくても、私、今のままで大丈夫ですが……」と申し出てくれても、「いいのいいの。日野原、暇すぎて、頼んでいない仕事までやれるような状態だから」と、一ノ瀬はにべもない。
「大丈夫ですか?なんか、顔色が良くないけど……」
稲田が冬美の顔を覗き込んでくる。冬美は無理に笑顔を作った。
「大丈夫です。このところちょっと忙しくて……。何か私に御用ですか?」
「ええ。今日ね、大窪くんが健康管理センターに来ているのよ。それでね、少しでもいいから、日野原さんに会いたいって。ちょっと仕事抜けられるかしら?」冬美は散乱していた書類をバサッと閉じ、勢いよく立ち上がった。「行きます!」
「日野原さん、すみません、お忙しいのにわざわざ……。それに、こんなことになって、本当にすみません。せっかく採用していただいたのに、新人研修でもずいぶんお世話になったのに、こんなに長く休むことになってしまって……」
冬美が知っているより一回り小さな大窪が、目の前で頭を下げている。痩せたのだ。ずいぶん痩せた。
かつて親しみを込めて同期から『おじちゃん』と言われていた貫禄やおおらかな雰囲気は消え失せ、着古した洋服のように疲労感を全身にまとっている。
「いいんだよ、謝らなくて……」冬美はなんとかそれだけ言うと、唇を噛んだ。強く噛んでいないと、胸を締め付ける痛みが、涙となって溢れ出してしまいそうだった。大窪の前では泣くまい。そう思ってこらえた。
「稲田さんが定期的に連絡をくださるので、安心して休めて、なんとか会社に来られるまでには回復しました。もう休み始めて3か月になります。そろそろ焦りも出てきて……」ぽつぽつとそう話す大窪の言葉を受けて、稲田が腕を組んだ。
「私も、体調を確認することくらいはできるんだけど、メンタルは専門じゃないから、復職のタイミングが正直判断つかなくて。産業医の先生も内科だからねぇ。主治医に任せればって言うんだけど、主治医の先生も、いわゆる5分診療って感じで、ろくに大窪くんの話を聴いてくれないらしいのよね」
稲田の話を聴いて、冬美は自分の提案内容を思い返さずにはいられなかった。『メンタルヘルス不調に対応できる専門職(臨床心理士や保健師など)の雇用または外部EAPへの業務委託』『メンタルヘルス不調に対応できる産業医との契約』……冬美なりに勉強をして、こういう事態を想定していたのだ。だから提案したかった。大窪をスムーズに復職させるために。
「日野原さん、もうすぐ4月ですね。また新人が入ってきますね。日野原さん、また新人研修とかで走り回るんだろうなぁ」
ふいに、大窪が懐かしそうな目でそんなことを言った。
「そうね。でも私、新人研修担当からは、はずされるかも。課長に……」「課長?ああ、人事課長の一ノ瀬さんですね。一ノ瀬一郎さん」
「えっ?大窪くん、うちの課長のフルネーム覚えているの?」冬美が驚いて聞くと、大窪は少し笑ってうなずいた。
「はい。僕が休職に入るとき、事務手続きがあって一ノ瀬課長と面談したんですけど、最後、独り言みたいな感じでおっしゃったんです。『俺は、苗字にも名前にも一がつくだろう。親がな、なんでも一番になれってつけたんだよ。その通りずっと頑張ったんだけどな。そのせいでな……俺も昔、やったことあんだよ、うつ……』って。ぶっきらぼうな言い方だったけど、なんか、励ましてくれているのかなって感じたので、すごく覚えているんです」
冬美の頭の中で、人事課長の一ノ瀬が、冬美が知っているのとはまるで別人の顔で振り向いた気がした。
背負っている「物語」
人は誰でも、他人には計り知れない「物語」を背負っているのかもしれない。大窪から一ノ瀬課長のエピソードを聞き、冬美はそんなことを考えるようになった。(私の「物語」はなんだろう……。どうしてこんなに、人事の仕事を頑張りたいと思うんだろう)
一ノ瀬課長が、なぜ冬美の仕事を拒もうとするのか。その背景となる「物語」を知ろうとする前に、冬美は自分の背景に思いを馳せた。
(頑張らなくちゃ。人の二倍三倍、頑張らなくちゃ……)幼い自分が、頭の中でそう繰り返している。
冬美の妹の栄子は、いわゆる天才気質だった。幼児の頃に、専門家から「この子はIQが高すぎるので、特別に注意して育ててください」と言われたと、母親から聞いたことがある。
勉強だけでなく、ピアノでも算盤でも体操でも、短期間でずば抜けた成績を修めた。器用なタイプの天才だ。母親は喜んで栄子に様々なことを習わせ、毎晩自分で勉強をみるなど、栄子の教育に手をかけた。
一方、冬美は平凡な子どもだった。頑張れば頑張っただけ成果は出せるが、栄子のようにポーンッと、階段を何段も飛ばすような非連続な結果は出せない。けれども、母親に認めてほしかった。
だから、いつしか自分に言い聞かせるようになった。栄子のように褒めてもらうには、私は、人の何倍も頑張らなくちゃ。私は平凡だから、人の何倍も頑張って、やっと認めてもらえるんだ……。
その認知は、大人になった今、「人の役に立たない自分なんて、価値がない」という認知に姿を変え、自分を動かしている気がする。「人の役に立つように頑張れ」と。
苦しいな、と冬美は思った。自分の「物語」を知るのは、もしかしたら、すごく苦しいことかもしれない。でも、知りたい。知らなくてはいけない。その「物語」を乗り越えて、次の「物語」を紡ぐために。
冬美は、他部署の課長の中で、一ノ瀬課長の同期にあたる人物を調べることに決めた。
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