このコラムは、人事部で働く人々にインタビューし、メンタルヘルス対策にかける思いを中心に、その人生の一端を「物語」仕立てにしたものです。(※文中の名称はすべて仮名です)
★前回までのあらすじ
一人でできることに限界はある、でも人事こそ私の現場。
相反する気持ちを見つめて、冬美が出した答えとは・・・。
★前回までのあらすじ
一人でできることに限界はある、でも人事こそ私の現場。
相反する気持ちを見つめて、冬美が出した答えとは・・・。
内なる声を聴く
「大勢溺れているんだったら、船を作ったり、浮き輪をたくさん投げたり、そういうことが必要なんだよ」婚約者の篤史が言ったこの言葉を、冬美は胸の中で反芻していた。
冬美はじっくり何かを考えたいとき、プールで泳ぐことにしていた。3歳から水泳を始めた冬美は、プールでもお風呂でも川でも海でも、水に入っていると、とてもリラックスできる。疲れない程度にゆっくり泳ぎながら、規則正しい自分の息の音だけを淡々と聞いていると、気持ちが凪いでくる。
「今、私は何に気づくべきか、教えてください」
心の中でそう唱えると、水の底からプカリと泡が浮かび上がってくるように、自然と、どこからか、短い「答え」が返ってくるのだ。
『ひとりではない』
……そんな声が聞こえたような気がした。
冬美は水から上がった。身体の上を水滴が滑り落ちていく。頭の中をも、澄んだ水が煌めいて流れていったかのようだ。気持ちが冴え冴えとしていた。
(そうだよ、ひとりでなんとかしようと思うのは、傲慢だった。
船を作る、というのは、体制や仕組みを作るということ。
浮き輪をたくさん投げる、というのは、各現場に、部下を救ってくれる管理職をたくさん配置しておくということだ。
人事部の目が直接届かなくても、社員がうつにならないような職場を作ればいい。うつになりかけている人がいたら、周囲の誰かが見つけて、その情報が素早く人事に上がってきて、早めに対応できる仕組みを作ればいい。うつになってしまっても、ちゃんと対応して、回復させて、また職場に戻れるように、ケアする体制を作ればいい。各職場と人事を繋げる。そういう仕組み、そういう体制……!)
冬美は頭の中に次々と湧き上がるアイデアを逃さないよう、左手でドライヤーをブオーッと動かしながら、右手でペンを懸命に走らせた。
提案しようとした矢先の出来事
提案書
★集団分析結果および冬美が各現場の同期や後輩からヒアリングした内容を
ふまえた各職場での課題発見&対策立案ワークショップ
★全管理職対象・メンタルヘルス研修
★人事部内に、管理職からの相談対応窓口「メンタルヘルスホットライン」の設置
★メンタルヘルス不調に対応できる専門職(臨床心理士や保健師など)の雇用
または外部EAPへの業務委託
★メンタルヘルス不調に対応できる産業医との契約
★休職前/休職中/復職時/復職後までの対応ルールを記した「職場復帰支援プログラム」の作成
ふまえた各職場での課題発見&対策立案ワークショップ
★全管理職対象・メンタルヘルス研修
★人事部内に、管理職からの相談対応窓口「メンタルヘルスホットライン」の設置
★メンタルヘルス不調に対応できる専門職(臨床心理士や保健師など)の雇用
または外部EAPへの業務委託
★メンタルヘルス不調に対応できる産業医との契約
★休職前/休職中/復職時/復職後までの対応ルールを記した「職場復帰支援プログラム」の作成
冬美が考えた「仕組みと体制」は、このような内容にまとまった。三日間かけて提案資料に仕立てた。
最後にもう一度内容をチェックしてから、「よし!」と気合いを入れて席から立ち上がる。人事部長の大崎の席へ向かおうとしたその時、
「日野原!」
人事課長から呼び止められた。
「あ、はい……」さりげなく提案資料を机の上に伏せてから課長のところへ向かおうとすると、「いいから、その資料持って、ちょっと来て」と課長が言った。嫌な予感がした。提案資料を胸に抱え、課長の後に続いて会議室へ入る。
「それ、見せて」課長が手を伸ばす。仕方なく資料を手渡した。課長は無言でパラパラとページをめくる。ザッと目を通したかと思うと、資料を机の上に乱暴に投げ出した。
「誰が、こんな資料作れって指示した?」
咄嗟に何も言えず、うつむいた。投げ出された資料の折れたページが目の端に映る。
「日野原の直属の上司は僕だよね。僕が指示していないことに勝手に時間を使うのは問題だよねぇ。直属の上司通さず、部長に何か提案するのも、もっと問題。上司の頭越しに何かやるなって、新人のときに習わなかった?組織ってもんを、もっと考えなさいよ」
「……申し訳ありません。まず、課長に相談すべきでした。課長、あの、ご注意を受けたからお話するようで大変恐縮なのですが……、この提案資料の内容、きちんと聴いていただけませんか。今、休職している大窪くんのような、うつ病の社員を作らないために、考えた提案なんです。私、大窪くんが……」
「もういいから!」冬美の懇願を遮って、課長が大声を出した。
普段はどちらかというとネチネチと静かにしゃべる課長の大声に、冬美は驚いて身をすくめた。
「きみは、今後一切、こういうこと考えなくていいから。他にも仕事、いっぱいあるでしょ。これ、業務命令だから」
冬美の返事も待たず、課長は会議室を出て行った。冬美は凍りついたように、その場をしばらく動けなかった。
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