このコラムは、人事部で働く人々にインタビューし、メンタルヘルス対策にかける思いを中心に、その人生の一端を「物語」仕立てにしたものです。(※文中の名称はすべて仮名です)
★前回までのあらすじ
同期・後輩合わせて約500人、エース・キーマンとして活躍していそうな人も知っている。みんなに話を直接きくことができるのは、人事の自分だけだ!思い立った冬美は、猛烈な勢いで動きはじめたが・・・。
★前回までのあらすじ
同期・後輩合わせて約500人、エース・キーマンとして活躍していそうな人も知っている。みんなに話を直接きくことができるのは、人事の自分だけだ!思い立った冬美は、猛烈な勢いで動きはじめたが・・・。
婚約者との喧嘩
気まずい……を通り越して険悪な雰囲気の中、もう20分ほど黙りこくっていた。冬美も、婚約者である篤史も。チクタクと時計の針の音がやけに耳に響く。針が23時をさしたのを機に、冬美は立ち上がった。「とにかく、今日はもう帰る」
20分ぶりに出した自分の声は、かすれて低かった。
「待てよ。まだ話は終わってないだろう」
篤史に腕をつかまれ、もう一度座らされた。「どうするのか、ちゃんと決めろよ」そう言われて、思わず篤史を睨む。
喧嘩の発端は、冬美が3回連続で篤史とのデートを断ったことだった。
集団分析の報告会の日以来、冬美は毎日のように、仕事後、各部署の同期や後輩と会っていた。
深く話を聴きたいがために、ひとりずつ会っているため、時間がいくらあっても足りない。一緒に食事をしたり、飲みに行ったりしながら、各部署の仕事内容、課題、雰囲気、人間関係、何がやりがいで、何に悩んでいるか、会社や人事に対して何か意見はないか…そんなことを懸命にヒアリングしていた。そのため、篤史とデートする時間が最近はまったくとれず、結婚式の打ち合わせも進んでいなかった。そしてついに、篤史の堪忍袋の緒が切れた。
「おまえ一人が、プライベートの時間をそんなに使って、みんなに話を聴いたところで、具体的に何か解決に繋がるの?自己満足じゃねーの?」
「自己満足かもしれないけど、まずは現場を知らないと、何も始められないんだよ。知ってから、考えたいんだよ」
「だからそれも、おまえ一人じゃ限界があるって言ってるの。おまえ一人で全部抱えたって、身動きとれなくなるだけだぞ」
「でも、私は人事だもん。人事として、できることは全部やろうって決めたんだもん。篤史はなんでそれを応援してくれないの?」
「応援してないんじゃない。心配してるんだよ。冬美一人の手で直接助けられる人数には限りがある。溺れている人がいたとして、冬美自身が水に飛び込んでも、せいぜい助けられるのは一人だろ?大勢溺れているんだったら、船を作ったり、浮き輪をたくさん投げたり、そういうことが必要なんだよ」
そう言われて、冬美は初めて言い返すのをやめた。
船を作る…?
「ちなみに、今、俺も溺れているよ」
篤史の口調が微妙に変わったので、ハッと胸をつかれた。
「生身のまま全員を助けようとすると、結局誰も助けられず、自分のほうが溺れたり、本当に大切な人まで失うかもしれないぞ」
篤史は怒りを通り越した哀しそうな目で、最後にそう言った。
人事が、おまえの現場だろう
「よぉ、カリスマ人事!なんか元気ないじゃん」その日会った同期の相澤は、顔を合わせるなりそう言って冬美をからかった。思わず苦笑する。
「相くん、ありがとね。忙しいのに時間とってくれて」
「いいって、いいって。カリスマがまた何か頑張っているらしいって、他の部署の奴らからも、ちらほら聞いてるよ」
「だからカリスマはやめてよ」
相澤と焼酎を酌み交わしながら、いつものように、相澤の部署のことを色々聞いていく。自動車保険のシステムを担当している相澤の部署は慢性的に忙しいことで有名だ。月100時間を超える残業を行っている者が珍しくない。人事から毎月、産業医面談の勧奨を行っているので、そのことを冬美も把握していた。しかし相澤は不満を並べ立てるでもなく、快活な笑顔でよく飲んだ。
「相くんはすごいね。そんなに忙しいのに、前向きで。でもさ、その状態がこれからも続くと、さすがに倒れる人とか出てくるでしょ。誰に動いてもらえば、少しは状況変わるかなぁ?部長?」
頬杖をついてつぶやいた冬美のグラスに、相澤が焼酎を注ぐ。
「日野原、変えるのは、オレたちだよ」
思いがけないほど真面目な声に、冬美は思わず相澤の目を見た。
「オレたち、もうそろそろ中堅だろ。オレたちから、変えていかなくちゃ。誰かが動いてくれる、誰かが変えてくれると思っていたら、何も変わらないよ。日野原も、だから動いてんだろ」
「そう、ホントそうだよね。…でも最近、自分に何ができるんだろうって思う。聞けば聞くほど、現場って大変で、問題が山積みで。何から手をつけていいのか。私は現場を知らないっていう引け目も、正直あったりして」
「何言ってんだよ!」相澤は笑いを含んだ大声でそう言い、冬美の肩を思い切り叩いた。
「人事が、日野原の現場だろ。人事の日野原にしかできないことがあるだろ。オレたち同期は、みんなおまえに協力するよ。後輩たちだって」
少し目を潤ませた冬美に、相澤はニカッと笑ってみせた。
「頑張れよ、カリスマ人事!」
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