第31話:大蔵省VS司法省の大喧嘩が勃発――渋沢栄一&井上馨と江藤新平の対立

日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する(編集部)。

私立銀行設立から国立銀行へ

当時「三井組」といえば旧幕府の為替御用を勤めて江戸、京都、大坂の三都に店を持った三井両替店改め「御為替三井組」のことで、慶応2年(1866)以来、その番頭は三野村利左衛門(みのむらりざえもん)が務めていた。三野村は戊辰戦争中に明治新政府軍の東征のため軍資金を調達して世に知られ、明治元年(1868)には東京府会計官付属商法司知事補となり、大蔵省ともつながりができた。

その三野村から三井組において私立銀行を立てたいとの請願があったのは、明治五年の八月以前のこと。渋沢栄一は、これに対する大蔵次官としての自分の対応も『雨夜譚』に訳述している。

「井上(馨)に相談してこれを許可しようとしたけれども、その頃から銀行条例の取調(とりしらべ)に掛ったからしばらく三野村に猶予を命じて置いたが、そのうち今の条例が出来たによって、いよいよこの条例に準拠して私立の名義でなく国立銀行として創立しようということになって、すなわち現今の第一国立銀行はその歳の秋頃から計画をしたものでありますが、これを国立銀行とする以上は、独(ひと)り三井組ばかりでなく、小野組、島田組などといって東京府下において豪家(豪商)の名のあるものとも協同し、その他一般の株主をも募集することになりてそれぞれ相談も行届き、創立の願いを出して許可を受けたのはその歳の冬でありました」

小野組は盛岡出身の初代が物産交易に成功して盛岡、京都、江戸に出店。島田組とともに旧幕府の金銀御為替御用達(ごようたし)として大名貸(だいみょうがし/大名への金銀の貸し出し業をも営み、明治維新にはやはり島田組とともに金穀出納所御用達となって陸軍省及び多数の府県の為替方として官金を取り扱った。

三井組と小野組は、このようにして国に関与していたことから協力し合って三井小野組合銀行を組織。これが銀行条例発布前に創立を許された銀行の第1号となり、のちに名称を改めて第一国立銀行となるのである。

『青淵先生六十年史 一名近世実業発達史』(以後『六十年史』と略す)第1巻が、この第一国立銀行を「我邦(わがくに)ニ於テ初(はじめ)テノ完全ナル銀行」と形容しているのは、すでに横浜には外国資本の銀行が存在していたのを意識してのことであろう。

伝習生を設けてイギリス式銀行事務を浸透させる

その意識は大蔵大輔井上馨も栄一と同様であったが、文久3年(1863)から元治元年(1864)にかけて伊藤俊輔(博文)らとともにイギリスのロンドンへ留学した経験のある井上は、発想をさらに一歩進めて、横浜にいるイギリス人銀行マンからだれかを選び、大蔵省紙幣寮から募った伝習生に銀行業務の実態を教えさせてはどうか、と考えた。

ちなみに幕末から明治初期にかけて、「伝習」ということばは実によく使用された。フランス軍事顧問団からフランス式の散兵戦術を教えられた旧幕府の歩兵たちは「伝習歩兵」として「伝習隊」を編成。勝海舟らは「長崎海軍伝習所」で洋式軍艦の運用を学び、富岡製糸場に工女として採用された娘たちは四人のフランス女性たちから製糸の伝習を受けた、というように。陸海軍も製糸場も銀行も、ともに欧米に見習って富国強兵に努める、という感覚が一般的であったために、「伝習」を受けることこそが当時の若い人々の憧れとされたのである。

井上の意見によって銀行業務伝習の教授に指名されたのは、横浜東洋銀行の書記をしていたイギリス人シャンド。『六十年史』は漢字片仮名混じり文で濁点と句読点がないため読みにくいので、本稿での引用部分は漢字平仮名混じり文に改め、句読点を付して紹介しよう。

「シャンドを聘(へい)し(=招き)、紙幣寮に於て伝習生を募り、銀行行政を始め銀行諸般の業務を伝習せしむ。又、第一国立銀行内に稽古所を置き、行員をしてシャンドの教授を受けしめたり。今日、第一銀行に於て最も有力の役員たる佐々木勇之助、熊谷辰太郎、長谷川一彦、本山七郎兵衛等は、当時シャンドの直弟子たり。現今シャンドは英国倫敦(ロンドン)『パース』銀行の支配人にして、明治三十二年六月、倫敦に於て我邦公債千万?(=ポンド)ヲ募集せしとき頗(すこぶ)る尽力せり。奇縁と云ふべきなり」

シャンドを招き、通帳への記入法、簿記の基本から教えてもらった井上馨の目に狂いはなかったのだ。人生において「人を見る目」を養うこともまた、人とおのれを幸福に導くための大いなる武器である。

司法卿・江藤新平の逆恨み

さて、ここまでの井上・渋沢コンビの奮闘ぶりを念頭において、ふたたび明治5年における各省と大蔵省との「一種の権限闘争の如き紛議」(『雨夜譚』)がどのように進展したか、という問題に視線をもどそう。前話(第30話)で触れたように、大蔵省をもっとも激しく攻撃したのは司法卿江藤新平である。その次に強硬な態度をとったのは初代文部卿の大木喬任(たかとう)で、両者はともに旧佐賀藩の出身。旧佐賀藩士には頭脳は優秀だが勉強ばかりしていて頭でっかちな者が多い、という定評があった。

その江藤が大蔵省の井上・渋沢コンビと衝突したきっかけは、江藤が明治6年(1873)度の文部省予算を請求するに際し、積極的放漫政策をとろうとしたことにあった。

「即ち(明治5年)十一月分の支出を基本として積算したならば、三府十二県の各裁判所一箇年予算経費金五十二万六百二十両六千元で済む所を、六年度に対して、区裁判所の設置、検事、検部の出張、檻倉並びに警察費を込めて、九十万五千七百四十四両(ママ)六千元(ママ)を計上し、之を強硬に大蔵省に請求した。然るに大蔵省では之を精査して大斧鍼(だいふえつ)を加へ約四十五万両(ママ)に減縮したので、江藤は大いに憤慨し、公に対して執拗に抗弁する所があった」(『世外井上公伝』1、数字は江藤の伝記『江藤南白』下巻の挙げる額面と同一だが「両」とは「円」のこと、「元」が何を意味するか不明)

大木喬任が請求した予算額は「二百万円」(『世外井上公伝』1)、「百三十万両(ママ)」(『江藤南白』下巻)と説がわかれるが、前者によれば大木は請求額を「百三十万円」まで下げて妥協を求めたが、井上はこれも退けて100万円しか出さなかったという。

明治5年の歳入額は4,000余万円に達していたとはいえ、この歳入額では財政上700万円以上が不足していた。だからこそ井上・渋沢コンビは太政官札や公債の発行、あるいは借入金などによって急場をしのいできたのであり、「入るを量って出だすをなす」の原則に照らし、司法省や文部省の予算請求はとても呑めるものではなかったのだ。

大蔵省と司法省の不仲に太政官も困惑

怒った江藤は井上に対し、こう豪語したこともあった。

「足下は口常(くちつね)に経済を唱へるが、経済とは経世済民の道であつて、必要に応じて経費を按排(あんばい)(按配)するのを本旨とする。足下の所謂(いわゆる)経済はただ算盤勘定だけで、真の経済ではない」(『世外井上公伝』1)

大蔵省と司法省の関係が険悪になった原因にひとつとして、贖罪金(しょくざいきん)の処分問題をあげることができる。贖罪金とは犯した罪をつぐなうために差し出す金のことで、いにしえの法律「延喜式(えんぎしき)」に定められたものが王政復古とともに復活していた。しかも、なぜか明治の贖罪金は大蔵省の国庫に納められるのではなく、支払い窓口の司法省が経費として流用していた。井上はその不合理に気づき、贖罪金は大蔵省へ納めさせようとした。

それが江藤の癪(しゃく)に障ったと聞いた太政大臣三条実美は、参議の大隈重信に対し、「贖罪金を司法(省)で使用することは賛成しがたいから、一応大蔵(省)へ入れて、而(しこう)して後に司法(省)に振向けるやう一応君から井上に談じて貰ひたい」(同)と書面で依頼した。

そこで大隈が井上と懇談してみても、「正院(太政官政府の中枢)の指図とあらば承伏する外は無いが、会計上の運用をどうするべきかの御指図も願ひたい」(同)、と井上も引き下がらない。幕末には色白なことから「白豆」と渾名(あだな)されていた気の弱い三条太政大臣は困惑してしまい、明治6年度の予算は、5年11月に入ってからも成立しなかった。しかも、大隈は視察と称して西国へ主張。井上も11月5日から欠勤し、政務を見なくなった。

渋沢栄一から見ると今日の内閣総理大臣に当る「白豆」三条実美の腰のふらつきも悶着沙汰が解決に向かわなかった一因だったようで、『雨夜譚』は下のように記述している。

「政府は言を左右にして司法、文部の請求を擯斥(ひんせき/却下)せぬによって、井上は断然辞職の意を決し、年末に際して出勤せぬから、大蔵省の諸職員は執務の張合が抜けてその方向を失うほどであったから、政府においても大いにこれを憂慮しられて、三条公は再三自分(栄一)の宅へ来られて、井上の出勤を勧誘すると共に自分にも辞職の考えなど起こさぬようにと、懇(ねんご)ろに説諭を受けましたが【略】翌年六月に引続いて、各省と大蔵省との紛議は絶えなかった。(略)江藤新平と井上との間は別して不折合(ふおりあい)で、いわゆる氷炭相容れずという仲だから、江藤の意中では全体井上は怪しからん人物だ、ただただ各省(の予算請求)を詰めるばかりで、而して自分が大蔵省を専横するというのは実に不埒(ふらち)だ、もしこのままにして打捨て置く時にはどこまで跋扈(ばっこ)するか知れぬなどといって、ますますその軋轢(あつれき)が烈しくなった」

むろん、この「軋轢」の余波は、栄一にも及んだ。『世外井上公伝』1に掲載された栄一の談話に、次のくだりがある。

「井上さんの居らぬ時に江藤が私の所に来て、司法省の方に金を幾ら出せ、太政官で命令が出たから渡せといふ。私は渡さぬ。渡さなければ違勅だといふ。違勅であるか知らぬが、此処(ここ/大蔵省)の主宰者は大蔵卿で、其留守中、井上大蔵大輔が主任してゐる。其主任の指図がなければ、如何(いか)なることがあつても渡すことは出来ぬと言つて拒絶したことがある。江藤さんは、ひどい奴だと言つて帰られたことがあります」

井上・渋沢コンビがこの問題に示した最終的な態度については、次話で眺めよう。