日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する(編集部)。
新貨幣制度へ移行が緊急の課題に
明治4年(1871)9月下旬、すなわち大蔵卿大久保利通と衝突してから月が改まらないうちに、渋沢栄一は大阪へ出張することになった。これは別に井上馨が栄一を大久保から引き離しておこうと思って図ったことではなく、大阪に置かれた大蔵省の付属機関・造幣(ぞうへい)局に起こっていた問題を解決するためであった。明治政府が、発行した紙幣の種類にいては第26話で紹介済みだが、造幣局とはこれらの紙幣に対し、貨幣(コイン)を鋳造する機関である。造幣局は、慶応4年4月に設置された際には貨幣局と称した。それが改称されたのは次のような理由による。
「明治元年4月から会計官(大蔵省の前身)中に貨幣司を置き、大阪長堀金座及(および)東京元金座に於て徳川幕府が、安政以降鋳造したのと同一形式の2分金、1分銀及1朱銀【中略】等を熾(さか)んに鋳造せしめ又東京銀座に於て当百銭(天保通宝=原注)を鋳造せしめたが、工場管理の方法宜(よろ)しきを得ず反(かえ)つて従来よりも劣悪なる貨幣を製出する結果と為(な)つたから(明治初年頃の貨幣の紊乱〈びんらん〉を一層助成したるは是等〈これら〉の貨幣鋳造による=同)翌2年2月5日貨幣司を廃し、改めて太政官中に造幣局を設置したのである」(『改訂 本邦貨幣の事歴』)
2分は1/2両、1分は1/4両、1朱は1/16両(1分の1/4)。1両小判が楕円形なのに対し、2分金以下は長方形、1分金と1分銀などおなじ額面なのに地金が異なる場合には、その地金の質量を1分金なら金0.75匁(もんめ/2.8グラム)、1分銀なら銀2.3匁(8.6グラム)などとして価値をそろえた。
ところが、安政年間(1854~60)以降、幕府が鋳造した貨幣は質が劣悪であり、悪いことに幕末の慶応年間(1865~68)には軍資金を得るために貨幣鋳造に踏み切った藩もあった。これは私鋳だから贋金(にせがね)としか評価できないものだが、明治初年の貨幣司すら鋳造できなかった良貨を幕末の諸藩が製造できるわけもない。
「私鋳にかゝるものは特に劣悪で、所謂(いわゆる)2分金であつて、名は金貨であるが銀胎(ぎんたい)(銀の地金)に金鍍(メッキ)、甚だしきに至つては銅胎金鍍であつた。此(この)劣悪極まる貨幣は、東北鎮定の為に行軍した諸藩兵の運動と共に流布したのであつた。良貨は駆逐されて、悪質は世にはびこつた」(幸田露伴『渋沢栄一伝』)
劣悪貨幣の回収と新貨幣への切り替えに着手した渋沢栄一
栄一は廃藩置県の際に、諸藩の所有する藩債や藩札を明治政府発行の公債と貨幣に引き換えるという面倒な役をよく果たしたことがあった(第26話)。そのため栄一は、これら劣悪な貨幣を回収して新紙幣や造幣局製の貨幣に切り換えてゆく、という役目をも背負わされたのである。ちなみに明治政府は、統一貨幣の鋳造を考えた当初は品位の改良のみを目的としていた。それに対して、
・「両・分・朱」という単位を廃し、「円・銭・厘」とすべきこと
・4進法ではなく10進法とすべきこと
・形は欧米のコインにならって円形にすべきこと
これらを提案したのは、明治2年の時点で参与だった大隈重信と造幣局判事だった久世治作(旧大垣藩)であった。イギリス人技師ウオートルの指導によって明治3年11月27日から鋳造された新貨幣は次の11種類である。
1、金貨:20円、10円、5円、2円半(のちに2円に改定)
2、銀貨:1円、50銭、20銭、10銭、5銭
3、銅貨:1銭、半銭
金貨とともに1円銀貨も鋳造されたのは、この時代に貿易銀(貿易取引専用の銀貨)として用いられていたメキシコドルの1ドル銀貨と並行して流通させられる銀貨が必要だったためであった。
また、「明治二年現在本邦流通貨幣調」(『改訂 本邦通貨の事歴』所収)によると、当時の金貨、銀貨の額面と総量は左のようであったという。
1、金貨11種合計 6,352万9,989両
総量 11万9,785貫300匁(約449トン195キロ)
2、銀貨8種合計 117万1,400両
総量 145万2,713貫944匁(約544五トン277キロ)
3、1と2の合計 1億1,643万4,938両2分
このうち金は、3万656貫421匁(約114トン962キロ)
額面は1億5,328万2,105円
おなじく銀は、142万5,945貫667匁(約五347トン296キロ)
額面は、7億1,297万2,833円50銭
幕末の2分金の劣悪さについては諸外国から厳しい抗議を受けていたこともあり、明治政府が太政官札あるいは右の貨幣との交換を引き受けた。その現場を統括したのが渋沢栄一だったわけだが、ここは栄一自身の回想を見よう。
「通用の二分金と紙幣すなわち太政官札との間に価値の差を生じて、二分金を札に交換せんとする時には百円について五円以下の打歩(うちぶ/割増金)を出すという有様だから、大蔵省では兌換(だかん)券を作ってそれを発行して二分金を集め、造幣局において新貨幣に改鋳する時は【略】その間にまた大(おおい)なる利益を生ずる見込みがあるから、速やかにこの事を実施せられしと、かつて自分が大蔵省へ建議して直(ただち)に採用を得たからその発行に従事したが、この事務は大阪にも必要があるというのでこの事も兼任しろとの事であった。自分が大阪の滞留は一カ月余であったが、造幣の事務から兌換券製造発行の用事までもほぼ整頓したによって、十一月の十五日に東京へ帰任しました」(『雨夜譚』)
ここにいう兌換券とは、第26話に紹介した大蔵省兌換券のことである。
突然やってきた西郷隆盛の打算とは
すると「ある日の夕方」栄一の神田猿楽町の家へ参議の西郷隆盛が突然訪ねてきた(『論語と算盤』)。大蔵卿大久保利通は岩倉具視らとともに11月13日に横浜を出帆していたが、西郷は大久保に頼まれ、その留守中は自分が大蔵省の事務を監督することを承諾させられていた。そのため西郷は、大蔵省ナンバー4の栄一がどんな人物かを見定めるためにやってきた、と栄一は思ったかもしれない。しかし西郷が口にした用向きは、二宮尊徳が旧相馬藩に導入した興国安民法だけは、財政改革をおこなうに当たっても廃止してくれるな、という以外な申し入れであった。しかも、栄一が興国安民法についてご承知かと問うと、「ソレハ一向に承知せぬ」(同)という返事。そこで同法についてすでに十分取り調べ済みの栄一は、詳しく説明してやった。
旧相馬藩180年間の歳入統計を60年ずつ3者に分け、その中間値に当たる60年間の平均歳入を同藩の平年の歳入とみなす。次に180年を90年ずつの2期に分けて収入の少ない方を平均歳入とみなし、藩の歳出額を決定する。もしその年の歳入が平均歳入予算以上の増収となったら、その剰余金によって新田を開発する。この説明を聞いて西郷はこう答えた。
「そんならそれは入るを量(はか)りもって出(いず)るをなすの道にも適(かな)い、誠に結構なことであるから、廃止せぬようにしてもよいではないか」
栄一は国家の財政を考えているのに、西郷は相馬藩に水面下で信頼され、藩法の存続に動いたのだ。前話で詳しく見たように、栄一はまだ国家予算が確立できていないというのに、陸軍に800万円、海軍に350万円を支出せよと「握(つか)み出し勘定」で高飛車に命じた大久保と衝突したばかりである。西郷も大久保とおなじタイプかと感じたのであろう、栄一はよい機会だと思い、自分の財政意見を述べて西郷の不見識を批判した。
「西郷参議におかせられては、相馬一藩の興国安民法は【略】ぜひ廃絶せぬようにしたいが、国家の興国安民法はこれを講せずに、そのままに致しおいても差し支えないとの御所存であるか、承りたい。苟(いやしく)も一国を双肩に荷われて、国政料理の大任に当らるる参議の御身をもって、国家の小局部なる相馬一藩の興国安民法のためには奔走あらせらるるが、一国の興国安民法を如何(いか)にすべきかについての御賢慮なきは、近頃もってその意を得ぬ次第、本末転倒の甚だしきものである」
言いも言ったり、逆ネジを食わせたりするとはこのことである。さて、これに対して西郷はどう反応したか。栄一は右引用部の直後にこう記している。
「西郷公はこれに対し、別に何とも言われず、黙々として茅屋(ぼうおく)を辞し還(かえ)られてしまった。とにかく、維新の豪傑のうちで、知らざるを知らずとして、毫(ごう)も虚飾の無かった人物は西郷公で、実に敬仰(けいぎよう)に堪えぬ次第である」
渋沢栄一から見ると、西郷は一流の人物だが大久保は二流の器でしかなかった、という人物評がよくわかる逸話ではないか。