第26話:渋沢栄一の経営哲学「士魂商才」が花開く――富岡製糸場建設

日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する(編集部)。

故郷の危機に立ちあがった従兄・尾高新五郎の数奇な運命

渋沢栄一の少年時代の学問の師であり10歳年上の従兄(いとこ)でもある尾高新五郎については、明治2年(1869)3月中旬、上州手計村(てばかむら)から渋沢栄一の妻子をつれて静岡藩へ移り、当時栄一が静岡藩に設立させた商法会所で働きはじめたところまで紹介した(第21話)。

史料がないため断定しにくいのだが、間もなく新五郎はよんどころない事情から静岡を去り、帰郷した公算が大である。というのも明治3年冬のうちに、手計村をふくむ武州榛沢郡とその周辺には「備前堀(びぜんぼり)事件」という騒動が発生したからだ。

「備前堀」とは、徳川家康の江戸入り直後に関東の治水を担当した伊奈備前守(びぜんのかみ)忠次が掘った堀、という意味。もともともは烏川(からずがわ)の水を下流の村々へ分け与えるための水路であったが、時代が移って烏川が利根川に飲みこまれると、備前堀の水の取り入れ口へは利根川の水が大量に流れこみ、付近の村々は洪水に悩まされるようになった。そこで堀をふさいだところ、今度は用水枯渇の害が発生してどうにも埒があかない。そこで明治2年に着工されることになったのは、榛沢郡の向島(むこうしま)から新たな堀を掘り、手計村、新戒(しんかい)村、その地を貫いて小山川につなぎ、さらに堤を造って備前堀の下流に通じさせるという大工事。

しかし、この堀が完成すると向島上流の仁手(にて)村などは田に水が引けなくなる上、手計村、新戒村ほかは自村に用もない堀を造られて利根川の洪水にまきこまれる危険だけが増す。各村の村民たちは、近在の天領(旧幕府直轄領)を集めて発足した岩鼻県の県令や参事に工事中止を求めた。

テレビ時代劇中の農民が、「許して下せえ、お代官さま」と土下座する場面がよくあるのは、江戸時代には官尊民卑の感覚が強かったことに由来するのだが、明治維新後もこの感覚は強くなりこそすれ薄くはなっておらず、岩鼻県は刑吏に名主たちを脅迫させて、「新工事につき村方一同苦情なし」との請書(うけしょ)を出させた(幸田露伴『渋沢栄一伝』)。

これを聞いて立ったのが、尾高新五郎その人である。彰義隊と振武軍(しんぶぐん)に参加して新政府軍と戦った経験のある新五郎は、改めて新政府に挑戦する肚(はら)を固めたのだ。「乃公(おれ)に任せよ、悪くはすまいぞ」(同)といって関係14ヵ村の人々からの連判状を託された新五郎は、岩鼻県庁など無視して東京へ出ると、同年12月初めに静岡から上京して民部省へ出仕したばかりの栄一の家に厄介になり、民部省への抗議を開始した。

「新五郎は備前堀の最初からの変遷、利害、県吏の妄断、脅迫、人民の憂患、恐怖、憤怒までを雄弁滔々(とうとう)、理有り力有り、意気精彩有り余るまでに述べ立てた。此訴(このそ)を聴いたのが後に明治の大法官として一世に仰視された大審院長玉乃世履(たまのせいり)だったから面白かつた」(同)

元岩国藩士玉乃世履は、のちに「今大岡」すなわち大岡越前守の再来といわれる名判事である。訴状のみごとな論旨と新五郎の知性に感じ入り、これだけの人材を民間に埋もれさせておくよりは本省に採用すべきだ、と思いながら書類にふたたび目を落とした玉乃は、新五郎の肩書きが「渋沢租税正(そぜいのしょう)厄介」とあるのに気づいた。「厄介」とは、その家の世話になっているということ。そこで玉乃は次に栄一と会ったとき、尾高新五郎とはどういう者だとたずね、栄一は率直に答えた。そこで玉乃は、新五郎を民部省監督権少佐(ごんのしょうすけ)に任じた。

なんと新五郎は民部省へ抗議に来た立場であったのに、見こまれて同省の役人に採用されたのだ。こんな場面をはさんで備前堀事件は公平に裁かれ、新工事は中止とされて一件落着した。

尾高新五郎を「富岡製糸場」初代工場長にする

新五郎の民部省出仕について、やや詳しく眺めたのは、前章で述べたように栄一が明治3年(1870)七月に大蔵省の人間になったあと、民部省の担当者として製糸改良の実務に当たったのが新五郎だったからである。かれも養蚕や生糸の生産に通じていたため、栄一から推されて製糸改良問題の解決を引きついだ形になったのだ。

フランス人ブリュナーとともに製糸場の建設地を探しはじめた新五郎は、上州の高崎、前橋、下仁田などを巡歴したあげく、富岡(群馬県富岡市)の陣屋跡地を用地と決定。約5万5,400立方メートル(およそ1万6,800坪)の土地を買い上げ、建築師バスチャンに設計を依頼して、日本初の本格的器械製糸工場「富岡製糸場」の建設にとりかかった。

明治4年3月着工、翌年10月に主要部分が竣工したこの製糸場の初代工場長こそ、尾高新惇忠(あつただ)と名乗るようになっていた新五郎にほかならない。平成26年(2021)六月、「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界遺産に指定されたことは記憶に新しいが、当時の富岡は武州の本庄と信州の追分とをむすぶ下仁田越(しもにたごえ/中山道の脇街道)の小さな宿場だったから、地元民は文明開化とはまだ無縁に生きている。さまざまな難癖をつけて、尾高惇忠を悩ました。

いわく、木材を求めて妙義山の森林を伐採する、しかも異人のためにやるとはとんでもないことだ、天狗さまの祟りがあるぞ。それでなくとも、異人などに宿を貸すものか。大体、そんなひろい土地を買い占めるとは、山師ではないのか。妻をつれて現地入りしたブリュナーなどは、天狗信仰など初耳だったであろうからさぞや面食らったに違いない。それでも木材の伐り出しの日に天狗が怒ることはなく、天気はとても良かったので、地元民たちとのトラブルは起こらずに済んだ。

初の官営模範工場「富岡製糸場」オープン

西洋風の工場は煉瓦(れんが)建造物でなければならないが、ここで問題になったのは、日本人が煉瓦というものを知らないことであった。そこで惇忠は手計村に近い明戸(あけど)村の韮塚(にらづか)直二郎に命じ、同村の瓦師を富岡につれて来させた上でブリュナーから煉瓦とはどういうものかを講釈させた。煉瓦は、土を高温で焼きあげて作る点では陶器とおなじ。幸い富岡の一里東の福島町にいい土があったので、これによって初めて国産の煉瓦が作られた。レンガの「ガ」に「瓦」という字が当てられたのは、瓦師の努力によって国産煉瓦が誕生したためかもしれない。

セメントもなかったので、惇忠は手計村から堀田鷲五郎・千代吉という腕利きの左官親子を招き、漆灰の高級品を工夫させてこの苦境を打開することに成功した。これらの奮闘の結果を幸田露伴はこう述べている。

「遂に洋館三棟を組上(くみあ)ぐるを得るに至つた。これは殆(ほとん)ど我邦(わがくに)に於ける煉瓦建造物の最初だつた。それで、明治五年になつて、製糸工場一棟、長さ三十六間幅八間(65.4メートル×6.5メートル・筆者注)のものから繭(まゆ)置場二百坪、其外(そのほか)に三百人の工女を置くべき部屋、倉庫、乾燥場、貯水池等も漸次に出来、そして機械も据付(すえつけ)られた」

日本式の建築物は木造なので、柱を林立させないとひろい室内空間を現出させることはできない。対して富岡製糸場の大工場は、300坪近いひろさがあるというのに煉瓦の頑丈な壁に支えられているため一本の柱も必要としなかった。

苦戦する人材募集

地元民は大煙突から吹き出る黒煙を見上げて唖然茫然としていたが、ブリュナー、バスチャン、機械師ベランが赤ワインを飲むのを目撃するや、またもや悪い噂を流した。「あの異人どもは血の酒を飲む悪魔で、かれらのなすところはすべてキリシタン伴天連(バテレン)の魔法だ」、と。話は次第にオーバーになり、あの異人どもに近寄ると生血を吸われる、という吸血鬼伝説まがいのデマに育っていったため、工女を募集しても応募する者がひとりもいないという深刻な事態となった。

せっかくの大工場が出来上がったというのに繭から糸を取って生糸にするのは雇い入れたフランス人女性4人のみ。これではならじと、惇忠は13歳の自分の娘・勇子、同族の尾高治三郎の妻・若子、武州の豪農青木伝二郎の母・照子ほか30名の工女を雇い入れた。

やがて、その苦境を救おうとする心強い味方もあらわれた。「築地の梁山泊」における渋沢栄一の仲間、大蔵少輔伊藤博文と大蔵大丞の井上馨である。このふたりが今は山口藩となっている旧長州藩の士族たちから女子200名を募って工女としたため、人手不足は一気に解消されることになった。

その工女のうちに井上馨の姪ふたり――鶴子と仲子が加わったことも、栄一発案の官営初の模範工場を「築地の梁山泊」グループが何としても失敗させない、と決意していたことをうかがわせる。

渋沢栄一の経営哲学「士魂商才」とは

もとより栄一自身が、富岡製糸場の経営に携わったわけではないから、その成功を栄一の功績のひとつとしては言い過ぎになる。しかし、粗悪な蚕卵紙の問題から生糸の改良、近代的製糸工場の開設へとゆくべき道を指示したのは栄一であり、官営初の模範工場が栄一の従兄尾高惇忠の苦心によって成功をおさめたことは、「官業を以て民業の模範を示し、幕府時代の旧型を破り、以て明治の百般商工業発達の先鋒となり、随(したが)つて日本の社会全体を新意気に燃え立ちて進歩するに至らしめた(幸田露伴『渋沢栄一伝』)。

江戸時代の商人たちは、いかに富裕であったところで武家政治を支える縁の下の力持ちでしかなかった。しかし、渋沢栄一はサムライ・スピリット(士魂)と理財の才をあわせ持っていた珍しいタイプの日本人であり、「和魂漢才」ならぬその「士魂商才」は、この頃から国造りのために発揮されはじめたのである。栄一自身は「士魂商才」について、左のように語っている。

「人間の世の中に立つには、武士的精神の必要であることは無論であるが、しかし武士的精神のみに偏して商才というものがなければ、経済の上から自滅を招くようになる。ゆえに士魂にして商才がなければならぬ」(『論語と算盤』)

その栄一は、古いつき合いのある尾高惇忠をやはり士魂商才ある者とみなし、かれが製糸場作りに才気を見せる姿を静かに見つめていたのであったろう。
 
なお、明治8年(1875)にこの製糸場がお雇いフランス人との契約をおえて日本人独力の運営に変わったとき、大蔵大輔になっていた松方正義は惇忠ににこやかに告げた。

「君の面(かお)も立派に立つたが、予の器量も為(ため)に上(あが)つた」

無骨者の多い薩摩藩の出身者にしては、しゃれた褒め方である。