日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する(編集部)。
帰国決定までの経緯
最後の将軍徳川慶喜が大政奉還を勅許された慶応3年(1867)10月15日以降、幕府は「旧幕府」と呼ばれるようになった。その旧幕府は駐仏公使・栗本安芸守(あきのかみ)へは「御用状」という名の書状で本国の情勢を伝え、行動を指示しつづけていた。以下しばらく、渋沢栄一が『巴里御在館日記』に記した月日に従い、その内容の要約を中心として一行の動向を紹介してゆこう。すべて西暦1868年(慶応4)の出来事である。4月8日、公子(昭武)はもちろん栗本安芸守、留学生ともそのまま滞在あるべきこと、との御用状来る。
4月27日。これは御用状ではないが、日本の新聞に大坂表でフランス人が殺害され、外国人が戦争準備に入ったので新政府があれこれ交渉をはじめたと出ていた、と聞く(これは「堺事件」発生の第1報。「堺事件」とは3月18日にフランス軍艦「デュプレクス号」乗組の水兵と士官が堺の栄橋通りあたりで住民たちに狼藉に及び、土佐藩6番隊、8番隊の兵と衝突してフランス側に11人の死者を出した一件のこと。土佐藩主山内豊範はフランスに賠償金15万ドルを支払い、関与した11人を切腹させた)。
5月3日。上さま(慶喜)の東帰以来、江戸府内は平静とのこと。
5月5日。上さまは新政府へ御恭順のため上野の寛永寺にお入りになり、江戸城西の丸は田安家当主徳川慶頼(よしより)と津山藩主松平斉民(なりたみ)の両侯にお預けになったという。「上野の宮さま」こと輪王寺門主・公現法親王(こうげんほっしんのう)は、2月21日、慶喜に代わって謝罪するため御上京なさった由。
5月18日。栗本安芸守、パリから帰国。
5月30日。薩長主体の新政府軍江戸に接近、横浜港も近く敵の手にわたるべし、とのこと。上さまにはいよいよ御恭順の御趣意にて上野の寛永寺にあらせられ、忠憤のあまり過激に及ぶ者これなきようお諭(さと)しある由。
6月17日午後9時。ロシア、オランダ、イギリスへの留学生のうち帰国を決めた者23名、送別会にまかり出る。
6月18日午前9時。帰国者出立。渋沢栄一見送り。
7月4日夕方。フロリ・ヘラルト、京都(朝廷)より公子に帰朝のお達しがあり、駐日フランス公使より送られてきたその達し書を差し出す。
7月5日朝。山高石見守、栗本貞次郎(安芸守の養子、イギリス留学生)、栄一の3人、公子と相談し、帰朝と決定。
7月6日。フロリ・ヘラルトに帰国の件を伝えると、9月中にご出立されては、との意見。上さまは4月12日に上野を出て水戸へ移り、謹慎をおつづけになるそうで、同日、江戸城は尾張藩に引きわたされた。いずれ旧幕府の海陸軍も新政府に引きわたされる予定だが、脱走者多しとのこと。
7月27日。日本の新聞によれば、奥州の諸侯いよいよ王命(天皇〈新政府〉の命令)に不服にて、ついに戦争に相なるべしとのこと。
8月10日。江戸城へは官軍(「官軍」と称した新政府軍の兵)が入り、徳川家の御家名が存続するかどうかの仰せつけはこれなし。奥州の諸侯、王命を拒み、おいおい戦争に相成るべしとのこと。
8月23日。昨日の「ラ・フランス新聞」によると、日本の新聞には徳川の家名は14歳の田安亀之助(徳川慶頼の3男、のちの家達〈いえさと〉)が相続することになった、とあるという。
8月27日。今夜の「ラ・フランス新聞」は、日本の新聞によるとミカド(天皇)の兵隊が北方の諸侯を征討するという、と報じた。
9月1日。「ラ・フランス新聞」によると、7月4日(和暦5月13日)、江戸城の京兵(官軍)のため市中の過半は焼失したと日本の新聞が報じているとのこと。
9月4日。帰国した栗本安芸守より養子貞次郎に書状到着。5月17日に横浜に着いたところ、15日~17日まで彰義隊と官軍の戦争があり、彰義隊は敗走、江戸市街は過半焼失の由。徳川の御家名は田安亀之助様が相続と定まるも、御領地や石高は未定。60余州の諸侯は大概王命に服せしが、会津と庄内の両藩はこれを拒む趣とのことなどを申し越す。
9月6日。公子御帰朝の儀につき、ふたたび京都より水戸表(慶喜)にお達しあり。水戸藩士長谷川作十郎より御書状をもって公子に申し上げるには、近々お迎えのため井阪泉太郎と服部潤次郎を再度渡仏させたき由。これによって、いよいよ御出立と決定。
9月10日。午後5時、ロッシュ、フロリ・ヘラルトほかが来たり。山高石見守、栗本貞次郎、栄一、菊地平八郎、三輪端蔵出席。ロッシュより公子にフランスに御滞留なされた方がおためになると申し上げる。帰国せよとのお達しを2度受けさせられて、今日に至り御滞在は情義と情理において成しがたく、よって来月フランスの郵船にて帰朝の旨を伝えしところ、御忠告をお聞き届け下さらぬならば別段申し上げることはありません、とロッシュ。懇篤なる忠告はしかとお聞きしましたが、先に大君(慶喜)は朝命をもって水戸表へ御退隠、なおまた朝命をもって水戸表より御帰朝申し越し候上は、則ち大君の思し召しと同様、右の順序もわきまえずひたすら本国の変動をうかがい、帰朝を延引するは日本人には決して成し難き儀、とお断り。夜クレーまかり出、御帰朝の手続きにつき相談。
9月15日午後、フランス領事レオン・ジュリーまかり出、公子に来たる10月フランスをご出発の旨申し上げる。
9月21日朝8時。井阪泉太郎、服部潤次郎、御帰朝お迎えとしてまかり越す。
なぜ新政府は徳川昭武をいち早く帰国させたかったのか
明治新政府が引退した慶喜の尻を叩き、昭武の元の供侍で仮病を使ってまでして先に帰国したふたりを帰朝お迎えとしてふたたびパリに派遣した、とはどういうことか。昭武が帰国を拒むのを怖れてのこと、としか考えられない。旧幕府海軍副総裁・榎本武揚が蝦夷地(北海道)へ脱走して旧幕臣の国を建てようと計画していたことをあわせ見ると、新政府が慌てた理由はよく察せられる。新政府は、昭武がロッシュたちの助言に従い、パリに残留して旧幕府の亡命政権など樹立したら困る、と考えたのではあるまいか。
ところが、この4月に水戸藩主徳川慶篤(よしあつ/斉昭の長男)が病死し、そのせがれ篤敬(あつたか)はまだ幼いため、昭武を水戸藩へ復帰させて新藩主とし、しかるのち篤敬を立てる、との方針が定められた。となると、どうしても昭武を帰国させねばならないということになり、新政府は水戸藩と縁戚関係にある東征大総督・有栖川宮熾仁(ありすがわのみや たるひと)親王に頼み、大総督府からの朝命として昭武に帰国命令を出したのである。
日本から援助が途切れる中、1年8ヵ月分の留学費用を捻出した資産運用手腕
その結果、昭武以下の帰国スケジュースは次のように決定された。荷物類は10月4日マルセイユ発のイギリス船で輸送する。一行は10月11日同港発のフランス船で帰国する。一行の横浜出発は1867年2月15日のことだったから、マルセイユを後にするまでで1年8ヵ月に及ぶ大旅行である。当然、勘定役たる渋沢栄一は金銭の出納に神経を使った。幸田露伴『渋沢栄一伝』はこの方面にもよく目配りしているので、これによって主たる数字を押さえておこう。
出発時の昭武用御手許金(おてもときん)は2,000両(のち数回追加)。フランス帝室および政府に対する費用は外国奉行の支払い。昭武が公務を終え留学生となった頃から本国よりの送金途絶えがちとなり、栄一の苦心ひとかたならず。だが勘定奉行小栗忠順がオランダ貿易会社経由で毎月2万5,750フラン(5,000両)の為替を送ってくれたので、1ヵ月の定額としてこれを使用。それでも1868年を迎えると経費節減の必要に迫られ、馬車は昭武用の1輛以外売却、使用人のうち女中、小使いは解雇し、毎月の出費を2万フラン以内に制限。残金を銀行預金にしたり、鉄道債券・公債証書買い入れに充てたりして利殖の道を講じた。
ベルゴレイの家を借りた際には、家主の注文で火災保険にも入ったし、昭武の名で貧民救済事業に寄付するときは、その事業はどんな組織と方法によって経営されているのかも頭に入れた。
露伴は栄一の上のような経済活動を紹介したあと、栄一は「スポンジの湿所に置かれた如く」経済知識を吸収した、と書いている。昭武一行の留学生活を安定させる上でも、パリの金融業界は大学のように多くのことを栄一に教えてくれたのである。
さらに最初の帰国命令が来た頃、旧幕府は為替ではなく正金(しょうきん/現金)2万両をオランダ貿易会社に払いこんでくれた。これは、形勢が変化して旧幕府が為替尻(かわせじり/為替残金)の支払い不能となることもあり得る、と考えて一行の生活費数ヵ月分を送ってくれたのである。
しかも旧幕府からの月に5,000両の送金は1968年4~5月まで受け取ることができたので、これらの金によって栄一は留学生23人を先に帰国させても、昭武の留学費用をなお2年間くらいはまかなえる目算が立っていた。しかし先述のような動きの果てに10月に帰国することになり、栄一はナポレオン3世への訣別の挨拶、フランス外務省とのやりとりから、借家の始末、鉄道債券・公債証書、諸什器・家具の売却に至るまでを、フロリ・ヘラルトに処理してもらった。
小栗忠順や榎本武揚の海外長期出張後の旅費の精算は、出費の合計と残金との差がわずかしかないみごとなものだったと前述した(第12話)。栄一の場合は留学生23人分を支出できただけでもみごとなのに、フロリ・ヘラルト経由で鉄道債券・公債証書、什器・家具の売却利益を得ていた可能性が高い。
昭武とのフランス留学は中断せざるを得なかったものの、栄一はアジアの植民地とヨーロッパの本国の関係からそのヨーロッパの金融業界の事情までをよく理解した帰朝者となることができたのであった。