将軍慶喜の弟・昭武がフランスで開催される「パリ万博」に貴賓として招かれ、随行した渋沢栄一は、フランスに到着してさまざまな最新技術を目の当たりにした。いよいよパリ万博を回った一行は、日本の工芸文化がヨーロッパ諸国から高い評価を受けている様子を目の当たりにする。しかし、本国では大政奉還がおこなわれ、将軍が退位したというニュースがフランスにまで届いた。
日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する(編集部)。
パリ万国博覧会見学で「ジャポニズム」評価の高まりを知る
6月13日、パリを訪れていた渋沢栄一ら一行は、それまで滞在していたグランド・ホテルからパリのパッシィ郷ベルゴレイズ街53番地の家を借り、こちらに引き移った。むろん、経費節約のためである。セーヌ河のほとりの元調練場だった周囲およそ1里の博覧会場を見学したのは18日午後2時からのこと。展示場のスペースは、イギリスが全体の6分の1を占め、プロシャ、ベルギー、オーストリアなどは16分の1、ロシア、アメリカ、イタリア、オランダ、スイスは32分の1、メキシコ、スペイン、トルコはその半分。ポルトガル、ギリシャ、デンマークなどと日本は、そのまた半分。しかも日本は、そのスペースを清国、シャム(タイ)と3分割して使うよう求められていた。
渋沢栄一に強い印象を与えたのは、アメリカ製の耕作器械、紡績器械、フランス出品のクリミア戦争セヴァストポリの戦いにおける英仏対ロシアの海戦図(油絵)などであった。
日本の展示品についてはフロリ・ヘラルドが栄一にわたした7月17日付の新聞に概略が下のように報じられていた。
「アジアからの参加国でもっともすばらしい産物を出品したのは、もちろん日本だ。小箱に鏡をつけた銀と象牙細工の小家具、または木材で鞘をこしらえた刀、天然の水晶を細工した玉(ぎょく)、日本婦人の美麗を想像すべき様に製せる像などは、ヨーロッパ好事家を幻惑すべく、蒔絵(まきえ)の漆器は漆の樹液に顔料や金粉を練りこんだものを木造の器に厚く塗り、そこに鶴、亀、松などを描いたもので、真に価値あるものなり」
下線を付したのは、画家であった作者・小島與一が京に長く滞在し、舞妓3人をモデルにして制作、彩色した博多人形製作『三人舞妓』である。微笑する3人の表情と振袖の衣装が美しく、審査会ではこの部門の銀メダルに輝いた(受賞はグランプリ、金メダル、銀メダル、銅メダル、表彰状の順)。
ちなみに、この作品は令和元年(2019)12月10日放送の人気テレビ番組「開運! なんでも鑑定団」に登場。鑑定依頼人は十数年前、東京の骨董店にて360万円で購入したのだそうだが、鑑定の結果800万円の高値がついた。
ヨーロッパでは19世紀後半に日本の浮世絵や工芸品を中心とする日本美術への関心が急激に高まり、「ジャポニズム」といわれた。その引き金となったのはパリ万博に日本から出品された展示品であるから、栄一たちもその評判の良さは誇らしかったに違いない。
日本を批判するヨーロッパ人の存在もあった
しかし、ヨーロッパはともかく上海などには日本を嫌う白人たちもいた。栄一が「ドクトルマクゴウアン」と表記しているアメリカ人などは上海で発行されている華字紙に、日本人は瀨惰淫逸にして汚俗を好むから性格も日に日に悪くなり、人口も年ごとに減るだろう、との論説を掲げたほど。栄一はそうと知ったのは、その華字紙がパリへ運ばれたためだが、この新聞には中国語を読み書きできる日本人からの反論も寄せられた。「ドクトルマクゴウアンの説は、まったく事実に反する。1859年に開国して以来、日本政府と大名たちは蒸気船多数をふくむヨーロッパ船80隻を買い入れた上、日本人の士官と水夫のみでよくこれを使用している。それでも足りないので鉄張りの鋼鉄船も注文しているところだが、これまでの船舶購入費用は750万メキシコドルで、これは約20万ポンドに相当する。これによってこれを見れば、日本は近く衰弱するべき人種にあらず」(『航西日記』より要約)
つづいてやってきた曲芸師・松井源水、足芸の浜碇定吉らの芸も評判を呼んだため、日本に対するゆえなき批判は単発のものでおわったようだ。
昭武の欧州周遊で内輪もめが勃発
それでは、徳川昭武の供として同行した水戸藩士7人の言動はどうだったのであろうか。「水戸の藩士の幾人かは飽迄(あくまで)我が旧形式、旧精神の厳存を以って忠誠と心得るやうな人だつたから、旅館のボーイの挙動を非礼だとして大声叱責したり、動物園を観ても徒(いたずら)に珍禽奇獣を集むるの愚と為(な)し、夜会劇等に臨みても苦々しい淫蕩驕奢(いんとうきょうしゃ)の事と為し、一概に外国風を斥(しりぞ)けるので、一行の者を困らせることもあつた。栄一は原市之進が自分を推薦したのもこれあるが為だと、何度も調停役を取つた」(幸田露伴『渋沢栄一伝』)
ところが8月30日、万博の行事もあらかたおわって諸国の王たちも順次帰国したので、徳川昭武にスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなどを歴訪してもらうことになった時点で問題が発生した。
この旅に大勢の随行員があっては目立ちすぎるし、ことに水戸藩士7人は大きな髷を結って長い刀を差しているから、外国人から見ると異形な出立ちで体裁が悪い。そこで昭武の供の人数を7人から3人に減らしたい、と御傳役の山高から菊地平八郎に申し入れたところ、井阪泉太郎、加治権三郎、服部潤次郎らが怒り出した。
われわれは将軍家(慶喜)の思し召しで公子(昭武)のお供をしているのであり、外国の国情を観て来いとのお沙汰であったかたらにはどこまでもお供をする、というのだ。山高に頼まれて栄一が7人と交渉することになり、「おのおの方が強いて全員での随行を主張して外国奉行配下の方々の命令に従わぬならば、帰朝するより仕方がない。自分も同行して帰りましょう」というと風向きが変わり、いたずらに帰国するのは残念千万だ、と菊池は答えた。
そこで栄一が、ならば7人のうち3人ずつが交代でお供をすることにして、スイス―オランダ―ベルギーで1回、イタリアで1回、次にイギリスで1回と顔触れを変えていくのはどうだ、と提案すると7人は同意したのでようやくこの問題は片付いた。
「スイスへの巡回は8月の初旬で、それからオランダ、ベルギーの両国をも歴覧せられて、9月の中旬にフランスへ帰り、その月末になってまたイタリーに旅行した。【略】イタリーの巡回は10月の末に終って、その23日にフランスへ帰り、さらに11月の初めからイギリスへ巡回されたが、パリへ御還(おかえ)りになったのはその月の下旬でありました」(『雨夜譚』)
パリへもどったのは西暦11月19日のこと、と『巴里御在館日記』にあり、以後栄一は語学教師を雇い入れ、昭武、山高石見守、自分と水戸藩士7人の計10人で本格的な留学生活に入った。栄一は勉強の合間に幕府へ現況報告の手紙を認(したた)めたり日記を書いたりせねばならなかったが、昭武の1日のスケジュールは下のようなものであった。
毎朝7時、乗馬の稽古
9時、帰館して朝食
9時半、教師が来て、午後3時まで語学と文法の勉強
以下、翌日用の下読み、作文、暗誦など
ところが、12月21日、水戸藩士4人を病気のため帰国させたい、と菊地平八郎から願書が差し出され、4人は明けて1868年(慶応4)1月15日にパリを去っていった。その4人とは井阪泉太郎、加治権三郎、皆川源吾、服部潤次郎のこと。かれらは留学生になどなる気はなかったから、仮病を使って帰国したのである。
パリにて幕府の大政奉還・激動の日本情勢を知る
それに先立つ1867年10月、「日本の京都において大君が政権を返上した」とする大政奉還のニュースが「フランス新聞」に出た。ナポレオン3世から昭武の付添として派遣されていたビチット陸軍大佐は虚説でしょうといったが、栄一は京都の困難な政情をよく承知していたので、新聞報道は事実であろう、と冷静に受け止めていた。慶応3年(1867)10月15日におこなわれた大政奉還が、その月のうちにフランスの新聞で報じられているとはずいぶん早い。『巴里御在館日記』によると、幕末維新の大変革は次のような順序で栄一の知るところとなった。
1868年3月20日。幕府から届いた「御用状」によって薩摩藩邸焼き打ち事件の発生を知る。これは慶応3年12月25日(1868年1月19日)、三田の薩摩藩邸に集まった不逞浪士たちの不法行為に怒った江戸市中見廻りの庄内藩が、フランス軍事顧問団のジュール・ブリューネ砲兵大尉の指導により、同藩邸に大砲を打ち込んで浪士たちを潰走させた事件である。
同日、「フランス新聞」は大君が大坂での一戦に敗れて江戸へ下ったと報じた。これは慶応4年1月3日に鳥羽伏見の戦いがはじまり、徳川慶喜は6日に大坂城から海路江戸へ逃れたというニュースである。
3月24日。「フランス新聞」に大君が辞職し、日本国内は新政府が鎮撫しようとしている、との記事があった。また、2月中に日本の帝(みかど/明治天皇)があらたに各国に使節を派遣し、改めて和親を確認する支度をはじめた、とも報じられた。午後1時にあらわれた山高石見守も、このニュースをカッションから聞いて承知しているとのこと。栄一は別の宿にいる駐仏公使・栗本安芸守(あきのかみ/号は助雲)を訪ね、このニュースを伝えてあれこれやりとりした。
すると、この夜の「フランス新聞」に日本の情勢についての続報が出た。大君は正月15日頃江戸へ帰府したが、今後大君が新政府軍をと再戦するのか和議を結ぶのか、あるいは西国筋の大名たちが合従して江戸を伐とうとするのかはまだ不明である、と。
上野介(こうずけのすけ)の受領名を持つ小栗忠順とともに親仏派の幕臣として知られた栗本安芸守は、外国奉行、箱館奉行、勘定奉行などを歴任した人物。昨年8月に渡仏し、向山隼人正に代わって駐仏公使に就任していた。その栗本公使は、4月6日午後9時、昨夜カッションから聞いた「横浜新聞紙」の報道を栄一らに伝えて、意見を述べた。
上さまの御帰府後、薩長軍は京都、大坂から兵庫にまで充満にしているから、われらとしては公子の進退と留学生の取り扱い方その他についてよく考えねばならない、と。
鳥羽伏見の戦いに旧幕府軍が敗北したことにより、その3ヵ月後、栄一たちはにわかに出処進退の判断を迫られることになったのである。