第13話:渋沢栄一が体験した船上での「ヨーロッパ文化」

一橋慶喜が将軍に就任し、その弟・昭武がフランスで開催される「パリ万博」に貴賓として招かれた。慶喜の判断で、渋沢栄一は洋行の供に選ばれる。船上生活で発揮された、異文化に溶けこむ柔軟さや好奇心を見てゆこう。
日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する(編集部)。

異文化に溶けこむセンスと柔軟さを発揮し、船上生活をたのしむ

渋沢栄一が乗船した「アルヘー号」には、帰国途中のイギリス公使館通弁官でドイツ人
のアレクサンドル・フォン・シーボルト(日本近代医学の父といわれるシーボルトの息子)も乗っており、日仏両語に通じていて、いつも通訳してくれるのがありがたかった。

栄一が「餐盤(さんばん)」と訳している食堂の「ターブル(テーブル)」に着席しての食事の内容は、『航西日記』活字本の2ページにわたって詳述されている。句読点のない文章で耳慣れない訳語も混じるので、メニュー一覧めいた形にして眺めてみよう。

【朝の紅茶】
朝7時「雪糖(砂糖)」入りの紅茶、「ブール(バター)」を塗ったパンと菓子、「豚の塩漬(ハム)」。「味甚(はなはだ)美なり」

【朝食 午前10時】
陶皿、「銀匙(銀製スプーン)」、「銀鉾(おなじくフォーク)」、「庖丁(ナイフ)」を添え、テーブル上に並べた菓子、蜜柑(みかん)、葡萄、梨子(なし)、枇杷(びわ)その他を自由に裁制(カット)させる。葡萄酒は水で割って飲ませる。魚、鳥、豚、牛、牝羊などの肉は、煮たり焼いたりして出される。焼いたパン(トースト)は、一食に二、三片を自由に。

食後、「カッフヘエー(コーヒー)」という豆を煎じた湯に砂糖、牛乳を混ぜて飲む。「頗(すこぶ)る胸中を爽(さわやか)にす」

【午後の紅茶 午後1時】
紅茶、「菓類(菓子)」、塩肉、「漬物(ピクルス)」を出す。「フイヨン(ブイヨン)」という獣肉、鶏肉などの煮汁を飲ませる。パンはなし。熱帯に至れば氷水を飲ませる。

【夕食 午後5時か6時】
朝食に比してすこぶる丁重。「肉汁(スープ)」、魚と肉を煮たり焼いたりした各種の料理とさまざまな果物、カステラ、砂糖で作った「冰漿(ひょうしょう)グラスクリーム」とはシャーベットのことか。

【夜の紅茶 午後8時か9時】
これで一日に二食、茶は三度となる。

以下は、これらのメニューのあとに記された栄一の感想である。

「其(その)食する極めて寛裕(寛大)を旨とし、尤(もっとも)烟草(たばこ)など吸ふを禁ず。総(すべ)て食事及び茶には鐘を鳴らして其期を報ず。鳴鐘凡(およそ)二度、初度は旅客を頓整し(集合させ)、再度は食盤(テーブル)に就(つ)かしむるを常とす。若(もし)くは不食(食欲不振)か疾病あれば医(船医)をして?(み/診)せしめ、其症(症状)に随(したが)つて薬餌(やくじ)を加ふ。【略】微密丁寧(配慮がよくゆき届いており)人生を養ふ厚き感ずるに堪(たえ)たり」(句読点、筆者)

渋沢栄一は肉をまったく受けつけなかった山川健次郎とは正反対に、洋食を美味と感じ、特にコーヒーを気に入った。山川健次郎はのちに東京帝大、京都帝大、九州帝大の総長を歴任して「白虎隊総長」と呼ばれる明治人の知性を代表する人物で、頑迷な気性の者ではまったくない。とはいえ洋行に出発した時点に関していえば、栄一の方が異文化にすんなりと溶けこんでゆけるセンスをそなえていたようだ。

異文化の美点から、健康に着目する生き方の大切さを学ぶ

しかも渋沢栄一は単に洋食にすぐ馴染んだだけでなく、食事とティータイムとをゆったりと楽しむ食文化の美点と、食によって健康に気づかい、もってそれぞれの人生をよりよくしようという発想法を感じ取り、すっかり感心している。漫然と食事するのではなく、栄一がこのような観察眼を持つ人間としてフランスをめざした、という事実は、筆者にはまことに興味深い。

みたび欧米人と日本人の当時の食文化の違いについていうと、明治の初めに来日したイギリス人女性イザベラ・バードは、東京―日光―福島県とゆく山越えの旅に人力俥夫を雇ったところ、体力を大いに使うその俥夫の昼食が握り飯2つとたくあん3切れというあまりにつましいものだと知って仰天している(バード『日本奥地紀行』)

栄一は諸藩の公用方(外交官)から京のお茶屋に招かれたこともあったから、その食生活が上に見た俥夫とおなじ程度であったわけはない。しかし栄一は、一橋家に仕える以前は横浜で攘夷戦をおこなうことを夢見た尊攘激派だったのである。攘夷派は「坊主憎けりゃ袈裟まで――」の例え通り肉食の習慣をも憎み、中には洋食用の仔豚の飼育場に乗りこんで殺戮をおこなった者すらあった。

だが、すでに攘夷熱から醒めて幕府の余命が短いことも読んでいた栄一は、フランス風の食文化と食と医療とを連関させて捉える発想を知ったことにより、「彼(か)の文明の度の我に勝つてゐることを認めた」(幸田露伴『渋沢栄一伝』)のであった。