第11話:渋沢栄一、「一橋家の家臣」から将軍家の「幕臣」となる

長州藩では高杉晋作率いる急進派が主流となり、幕府との対立が激化。幕府は「第2次長州追討」を決定したが、アメリカ南北戦争終結直後の慶応元年、開港地に集められた洋式装備を入手していた長州藩に惨敗を喫する。さらに、戦況悪化の要因として、徳川14代将軍・家茂は病没。次期将軍に一橋慶喜が指名された。一橋家に仕える渋沢栄一はもちろん将軍家に仕官することとなり「幕臣」に栄転となったが、実は慶喜の将軍就任に反対する立場であった。その理由とは……。
日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する(編集部)。

激震する幕藩体制

ここで少し時計の針をもどし、元治2年(1865)が4月7日に「慶応」と改元された頃からの政情を頭に入れておこう。

長州藩にあっては高杉晋作率いる急進派諸隊が主流派となり、藩主・毛利慶親(よしちか)改め敬親(たかちか)と諸隊とは尊王攘夷を大義とするものの当面は軍制改革をおこなって富国強兵に努めること、幕府に対しては武備恭順(開戦を覚悟しつつ和解も試みる)の策を採ること、などが方針とされた。軍制改革の担当者は、桂小五郎(のちの木戸孝允)。その洋式化を推進したのは、蘭学、特に兵学に強い村田蔵六(ぞうろく/のちの大村益次郎)であった。

対して幕府は、前年冬、長州藩が「禁門の変」を起こした責任者として三家老の首を差し出したことから自信過剰となり、その後は長州藩に10万石の削封、藩主父子の蟄居(ちっきょ)、孫の興丸(おきまる)への家督譲渡を通達していた。しかし、長州側がこの幕命に従おうとしなかったことから、幕府はふたたび長州追討にむかって動きはじめる(第2次長州追討)。

将軍として3度上京した家茂(いえもち)が、孝明天皇のもとへ参内(さんだい)したのは閏(うるう)5月22日のこと。この頃すでに、薩摩藩の西郷吉之助や大久保一蔵が幕府を見限っていたのは前述の通りだが、長州藩は幕軍相手に戦う覚悟を固めていたため火縄銃ではなく高性能の洋銃が大量にほしかった。

長州人はこれまでの攘夷の感覚が災いして、開港地に店びらきしている異国の商人たちに伝手(つて)がない。そこで井上聞多(もんた/のちの馨〈かおる〉)と伊藤俊輔(のちの博文)が長崎で「亀山社中(のちの海援隊)」という一種の商社を興していた坂本龍馬に仲介を頼み、西郷に薩摩藩名儀で武器を買いたいのだが、と持ちかけて反応を見ることにした。

西郷は幕府を倒し、雄藩連合による新国家をつくらねば、と考えてその雄藩のひとつを徴収藩と想定していた。しかも、この1865年(慶応元年)という年は4月にアメリカの「南北戦争」がおわった年でもあり、開港地に不要となった武器弾薬類が大量に持ちこまれつつあった。

龍馬の亀山社中は薩摩藩の保護を受けてもいたから、その紹介によって井上と伊藤は長崎の薩摩藩邸に潜伏。イギリス人商人トーマス・グラバーと交渉した結果、8月下旬、先ごめ滑腔銃(かっこうじゅう)の「ゲベール銃」を3,000挺、先ごめライフル銃の「ミニエー銃」を4,000挺、9万2,400両で買い上げると決定し、薩摩藩は持ち船「胡蝶丸」にこれらを積んで長州藩領の三田尻(みたじり)港まで運んでやった(末松謙澄『防長回天史』第5編上)。

これによって薩長提携の気運は決定的となり、朝廷工作を担当していた大久保は会津藩との「薩会同盟」の解消に踏み切った。

幕府vs長州の「第2次長州追討戦」勃発

さらに慶応2年(1866)1月7日、桂小五郎は上京して二本松の薩摩藩邸を訪問。西郷と大久保、そしてその上司の家老・小松帯刀(たてわき)らと会談し、同月21日にはまたも龍馬の仲介により、薩長同盟を密約するに至った。これは、薩長両藩がどんな戦況になっても協力して幕府に対抗することを明文化した攻守同盟である。

この同盟の成立に自信を深めたのかその後も長州藩は幕命を無視しつづけたため、第2次長州追討はついに「追討」となった。なお、長州側がこれを「四境(しきょう)戦争」と呼んだのは、周防国(すおうのくに)と長門国(ながとのくに)――いわゆる「防長2州」から成る長州藩領の東西南北でほぼ一斉に戦端がひらかれたことによる。

「大島口」こと瀬戸内海の周防大島での戦闘は、6月7日開戦。長州藩海軍総督・高杉晋作の奮戦により、10日間で同藩が圧勝した。

芸州広島藩のある「芸州口」では関ケ原とおなじ武器と陣形で戦った彦根藩・井伊家の兵力が洋式軍服姿の長州兵のゲベール銃で次々に倒され、幕軍側から見ても、「戦争といわんよりほとんど遊猟の感なきにあらず」(戸川残花『幕末小史』)と記録される大惨敗となった。

日本海側の「石州(せきしゅう/石見〈いわみ〉)口」は大村益次郎直率(じきそつ)軍が浜田藩6万1,000石の兵を敗走させ、藩主・松平武聡(たけあきら/徳川斉昭の第11子)は城を焼いて逃れる始末。藩士たちは着の身着のまま美作(みまさか)の8,000石の分領に移って「鶴田藩(たづたはん)」と称し、長く赤貧の暮らしを送る羽目になった。

九州の小倉口では小倉藩15万石の兵力が高杉晋作指揮の艦隊にしてやられ、小倉城を焼いて内陸の香春(かわら)へ藩庁を移して「香春藩」と改称せざるを得なくなった。

このように「第2次長州追討戦」は、ことごとく幕軍および追討諸藩側の敗北におわった。その最大の敗因は、7月20日、将軍家茂が21歳の若さで大坂城中に死亡したことかも知れない。甘い物が大好きで31本の歯のうち30本までがひどい虫歯になっていた家茂は、歯根から大量に体内へ取り込まれた毒素によって脚気衝心(かっけしょうしん)を起こしたのだ。その死は8月20日まで秘されたものの、将軍薨去(こうきょ)の噂は7月中に小倉まで伝わってきており、幕軍と小倉藩の兵力はこれによって戦意を喪失していた。

渋沢栄一が仕える一橋慶喜が徳川15代将軍に

家茂とその正室・和宮の間に子供はなく、御三家にも次の将軍たり得る男子は存在しなかったので、御三卿から一橋慶喜が指名されて15代将軍と決定。新将軍は家茂の死が秘匿されていたためその名代として追討戦に出陣し、幕軍の士気を振起することになった(7月29日、勅許)。

8月8日、天皇から節刀(せっとう/主将の印である太刀)を受けて本陣(大本営)の大坂城に移った徳川慶喜は、旗本一同を召して一席ぶった。「毛利大膳(だいぜん/敬親)父子は君父の讐(かたき)なり、此度(このたび)己(おのれ)出馬するからは、仮令(たとい)千騎が一騎になるとも、山口城まで進入して戦(いくさ)を決する覚悟なり。その方どもゝ余と同じ決心なら随従すべし。其(その)覚悟なきに於(おい)ては随従に及ばず」(渋沢栄一『徳川慶喜公伝』3)

当時の渋沢栄一の立場の変化については、栄一自身の回想を引こう。「この時に自分も長州征伐の御供(おとも)を命ぜられて、勘定組頭から御使番格(おつかいばんかく)に栄転した。【略】自分は勘定組頭の職を命ぜられてからは一図(途)に一橋家の会計整理に力を尽くして種々勘定所の改良を勉めて居たが、右の如く君公御出馬という場合になっては、腰抜け武士となって人後に落ちることは好まぬ気質だから、強いて従軍を願って御馬前で一命を棄てる覚悟でありました」(『雨夜譚』)

もちろん栄一は、従軍することを郷里の実家にいる妻・千代にも書面で伝えた。その書面の内容については、のちに娘の歌子が『はゝその落葉』の中であきらかにしている。

「其(その)時の御手紙に、郷里に居た頃から、尊王攘夷の志が同じなのを聞いて、はるかに敬慕して居た長州人を敵として向ふのは、誠に本意にもとる事であるが、公(一橋慶喜)の命令故(ゆえ)どうも反(そむ)くわけに行かぬ。武士として戦場に向ふからには生還は期し難い。私の身の上が今少し落附(おちつ)いたなら、御前(千代)と歌(歌子)は私の手許へ迎へとらうと予期して居た甲斐もなくなつたのが残念だ。もし討死(うちじに)でもする様な事になつたならば、御両親への孝養は勿論(もちろん)、歌のこともくれぐれ頼みますと云ふ事を、細々(こまごま)と云つてよこされ、一振(ひとふり)の懐剣を添へて送られて、御手紙の返す書(添え書き)に、此れは武士の妻になつた御前の守刀(まもりがたな)にと買つて置いたから、今度の序(ついで)に送るのであるが、かならず私が死んだなら御前もと云ふ謎と思ひ違へてはならぬと書かれている」

懐剣はあきらかに形見の品だから、栄一は戦死する覚悟であったことは確かである。

慶喜の出陣予定日は、8月12日とされていた。ところがその12日、小倉落城とこの方面の幕軍指揮官・小笠原長行(ながみち/老中・唐津藩世子)の逃亡が伝えられるや、慶喜は前言をひるがえして出陣を中止。今後は諸藩の会議で長州処分を決める、と言い出した。その後の慶応2年の主な出来事は次の通り。

8月16日:徳川慶喜参内し、征長軍の解兵を請い勅許を得る。
同20日:慶喜の徳川家家督相続が布告される。
同21日:将軍・家茂死去のため、征長中止の沙汰書が出される。
9月2日:幕長休戦の協定なる。
12月5日:慶喜、参内して征夷大将軍、正2位、氏長者(うじのちょうじゃ)の宣下(せんげ)を受け、正式に徳川15代将軍となる。

慶喜の将軍就任に反対だった渋沢栄一

一橋慶喜を次の将軍に、という説がおこなわれはじめた当初、栄一はこれを不可として新たに筆頭用人となった原市之進(水戸藩出身、藩校・弘道館訓導などを歴任)に談じこんだこともあった。今の徳川家は土台も柱も腐って屋根も2階も朽ちた大きな屋敷のようなものだから、大黒柱1本を取り換えればもつというものではない、と。

そして、栄一は、新将軍には別人を選んで慶喜は今後も「禁裡御守衛総督」の職務をつづけ、より充分に職責を果たすために幕府から50万石か100万石を一橋家に加増してもらうのがよいと、原市之進に献策。原もその気になってその旨を言上せよ、というところまでいった。ところがその翌日、慶喜が京から大坂へ下ってしまったため栄一のプランは空振りにおわったのであった。

こうして栄一は一種なしくずしに「一橋家の家臣」という身分から「幕臣」になってのであり、「陸軍奉行支配調役(しらべやく)」という御目見(おめみえ)以下の者の命じられる役向きとなった。これは栄一としては面白くも何ともない役職でしかない。

「回想すれば一橋家へ仕官してより既に二カ年半の歳月を経、言も行われ説も用いられ、辛苦計営(経営)していささか整理に立至った兵制、会計等の事も、皆水泡に帰したのは実に遺憾の事であった」(『雨夜譚』)

栄一は思った。あと1、2年の間に幕府は倒れるに違いないから、このまま幕臣でいるとついには亡国の臣になってしまう。ならば今の役向きから去るしかないが、この後の身の振り方をどうするべきか。これまで用人筆頭だった黒川嘉兵衛はよく自分の意見を採用してくれたし、慶喜にじかに拝謁して物申すこともできた。しかし、慶喜は将軍になると御目見以下とされた身では拝謁を許されないし、新たに用人筆頭となった原市之進にも垣根越しに物をいうようなよそよそしさがある。

そんなことから栄一は、以前のように浪人しよう、と覚悟を決めた。それが慶応2年11月ごろのことであったが、天は栄一が浪人暮らしにもどることを許さなかった。栄一がそうと気づいたきっかけは、11月29日、原市之進が急に相談したいことができたから来てくれ、との要件で使いをよこしたことにあった。
【つづく】