第2話:被支配階級を脱するため自律的キャリア形成に目覚める

日本の資本主義の礎を築き、「日本資本主義の父」として称えられる渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる前に、「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する。渋沢栄一の商才が培われた渋沢家の幼少教育から、政治への志を抱くこととなった。第2回は、近世・幕末(明治維新)という時代の大転換期だからこそ、自身の立場を認識するとともに、被支配階級を脱せねばならぬと悟ったきっかけを、エピソードとともに見てゆく。(編集部)

人品を鋭く見抜く批評眼

渋沢栄一が17歳のときというから、安政3年(1856)のことである。栄一は岡部藩安部家の代官の高飛車な態度から幕政の行き詰まりを感じ取り、政治に目覚めるに至った。今回はその過程をたどることからはじめるが、この時代の大名家は若君の元服、姫君の嫁入りといった物入りの際には領内の富商たちに御用金(献金)を命じるならいだった、ということをまず頭に入れておいていただきたい。

岡部藩から血洗島村(ちあらいじまむら)の素封家に御用金が課される場合、最高額を用立てるのは渋沢宗助、額面は1,000両。2番手が栄一の父・渋沢市郎右衛門(いちろうえもん)で、額面は500両と相場は決まっていた。栄一の回想録『雨夜譚(あまよがたり)』によると、市郎右衛門は栄一が「十六、十七歳の時までに、たびたび調達した金が二千両余りになって居た」という。

ところが安政3年、岡部藩はまたしても御用金の上納を命じ、渋沢宗助には1,000両、市郎右衛門には500両の額面を指定してきた。このような依頼は初め内々に耳打ちされた場合でも、形式上、公の場で藩の役人が正式に上納命令を発し、御用達(ごようたし)たちは慎んでこれをお受けする、という段取りを踏む必要がある。

しかし、若森という名の代官から岡部藩陣屋への出頭を命じられたとき、市郎右衛門は「差支(さしつか)え」があるとして栄一を自分の名代(みょうだい/代理)に指名した。『雨夜譚』は、市郎右衛門の「差支え」の内容については触れていない。恐らく市郎右衛門は岡部藩安部家の度重なる御用金納入依頼に腹ふくれる思いをしており、自分が出頭するとその場で返答しなければならなくなる、だが名代だけを出頭させれば先方の用向きをうかがうのみで帰参でき、時間稼ぎになると発想したのだろう。

栄一と同行して岡部陣屋へ出頭したほかのふたりは、いずれも一家の当主であったから、若森代官に御用金について切り出されると、その場で承知しましたと答えざるを得なくなった。つづいて栄一が500両の額を提示されたときの代官とのやりとりは、次のように展開していった。

栄一 御用金の高は畏(かしこま)りましたが、一応父に申し聞(き)けて、さらに御受(おうけ)に罷(まか)り出ます。
代官 貴様は幾歳(いくつ)になるか。
栄一 ヘイ私は十七歳でございます。
代官 十七にもなって居るなら、モウ女郎でも買うであろう。シテ見れば、三百両や五百両は何でもないこと、殊(こと)に御用を達せば、追々(おいおい)身柄(みぶん)も好くなり、世間に対して名目(みょうもく)にもなることだ、父に申し聞けるなどと、ソンナわからぬことはない、その方の身代(しんだい)で五百両ぐらいはなんでもないはずだ、一旦帰ってまた来るというような、緩慢(てぬる)な事は承知せぬ、万一、父が不承だというなら、何とでもこの方(自分)から分疏(いいわけ)をするから、直(ただち)に承知したという挨拶をしろ。
栄一 自分は、父からただ御用を伺(うかが)って来いと申し付けられたばかりだから、はなはだ恐れ入る儀であるが、今ここで直に御請(おうけ)をすることは出来ませぬ、委細承って帰った上、その趣を父に申し聞けて、御請をいたすということならば、さらに出て申し上げましょう。
代官 イヤそんな訳の分らぬことはない、貴様はつまらぬ男だ。
栄一 是非ともそう願います。

以上のやりとりは、『雨夜譚』からの抜粋である。栄一は代官を「なかなか如才ない人でそのうえ人を軽蔑するような人」であり、その口調は居丈高で「嘲弄(ちょうろう)半分」のものだったと批判的に回想している。栄一はまだ17歳――満年齢なら16歳の少年だったというのに、代官の「上から目線」の横柄な口調に動揺することなく、おのれの主張をどこまでも貫いているのは大したものだ。

時の政治の限界を悟る

しかも栄一には上のやりとりをその場限りのものとせず、これをバネとして当時の「徳川政治」の限界を悟るだけの知性がそなわっていた。栄一が岡部藩陣屋からの帰途考えたところは、これも『雨夜譚』に詳しく記されているので頭に入れておこう。

「人はその財産を銘々自身で守るべきは勿論(もちろん)の事、また人の世に交際する上には、智愚賢不肖(ちぐけんふしょう)によりて、尊卑の差別も生ずべきはずである。ゆえに賢者は人に尊敬せられ、不肖者は卑下せられるのは必然のことで、いやしくもやや智能を有する限りは、誰にも会得の出来る極めて睹(み)やすい道理である。しかるに今岡部藩の領主は、当然の年貢を取りながら返済もせぬ金員を、用金とか名を付けて取り立てて、その上、人を軽蔑嘲弄して貸したものでも取り返すように、命示(めいじ)するという道理は、そもそもどこから生じたものであろうか、察するに彼(か)の代官は、言語といい動作といい、決して知識のある人とは思われぬ。かような人物が人を軽蔑するというのは、一体すべて官を世々する(役職を代々つぐ)という、徳川政治から左様なったので、もはや弊政(弊害多い政治)の極度に陥ったのである」

しかし、このような幕藩体制に対する批評眼を身につけた者は、次の瞬間、その「弊政」に満ちた幕藩体制のもとに生きつつある自分は何者か、と自問しなければならない。上の引用につづく部分は栄一が自我のめざめを語った重要な一節なので、これも引いておこう。

「深く考えて見ると、自分もこの先(さ)き今日のように百姓をして居ると、かれらのような、いわば虫螻蛄(むしけら)同様の、知恵分別もないものに軽蔑されねばならぬ、さてさて残念なことである。これは何でも百姓は罷(や)めたい、余りといえば馬鹿馬鹿しい話だ、ということが心に浮かんだのは、すなわちこの代官所(陣屋)から帰りがけに、自問自答した話で、今も能(よ)く覚えて居ります」

10代半ばにして四書五経を深く学んだ教養人となっていた栄一は、のちには「日本資本主義界の父」ともいわれた立志伝中の人物である。上のくだりは、栄一が17歳にして立てた最初の志は「農民という身分からの脱出」であったことを語っている点で、まことに興味深い。

だが、栄一が新たな行動に及ぶのは、まだ先の話である。帰宅した栄一から父に代官とのやりとりを伝えられると、市郎右衛門は答えた。「泣く児と地頭には勝てぬ。仕方ないから受けて来るがよろしい」。止むなく栄一は、翌日、500両を持って陣屋へいったようだが、栄一は「金を持っていったように覚えて居る」とだけ書いて、代官との再度のやりとりには一切触れていない。代官の無理が通って道理がひっこむ事態となったことを無念に思い、とても書く気になれなかった、というところであろう。

政治への関与を志望するきっかけ

それにしても栄一は、首尾よく農民という被支配階級から脱出できた暁には、どういう人間になりたかったのか。その答えは、昭和2年(1927)に刊行された栄一の訓話集『論語と算盤』の「立志と学問」の章に語られている。

「『余は十七歳の時、武士になりたいとの志を立てた』というのは、その頃の事業家は一途(いちず)に百姓町人と卑下されて、世の中からほとんど人間以下の取り扱いを受け、いわゆる歯牙にも掛けられぬという有様であった。しかし、家柄というものが無暗(むやみ)に重んぜられ、武門に生まれさえすれば智能のない人間でも、社会の上位を占めて恣(ほしいまま)に権勢を張ることができるのであるが、余はそもそも、これが甚だ癪(しゃく)に障り、同じく人間と生まれ出た甲斐には、何が何でも武士にならなくては駄目であると考えた。その頃、余は少しく漢学を修めていたのであったが、『日本外史』などを読むにつけ、政権が朝廷から武門に移った経路を審(つまび)らかにするようになってからは、そこに慷慨(こうがい)の気というような分子も生じて、百姓町人としておわるのが如何(いか)にも情なく感ぜられ、いよいよ武士になろうという念を一層強めた。しかしてその目的も、武士になってみたいというくらいの単純なものではなかった。武士となると同時に、当時の政体をどうにか動かすことはできないものだろうか」

最後の一文を栄一は、次のくだりでは「今日の言葉を借りていえば、政治家として国政に参与してみたいという大望を抱いた」のである、と言い直している。『論語』や『孟子』は王道政治を理想とする立場から編纂された書物だから、これらを深く学んだものが実際の政治に関与したくなるのは自然な発想である。

ただし栄一は幕府や岡部藩のおこなっている「弊政」を批判的に眺めていたのだから、これまでの政道とはまったく違う政治思潮をもって良しとするようになっていった。その政治思潮とは、どのようなものだったのか。だれがそれを栄一に教えたのか。それを考えるには、栄一の従兄(いとこ)であり学問の師でもあった尾高新五郎(おだかしんごろう)のプロフィールから見てゆかねばならない。