政府が重要な政策課題として取り組んでいる「働き方改革」は、その内容によっては人事管理に大きな影響を及ぼすと考えられています。その中でも特に問題となるのは「同一労働同一賃金」と「労働時間の上限規制」に関わる法政策です。そこで学習院大学名誉教授の今野浩一郎氏に、政府で検討されている法政策の背景、考え方、内容を解説していただくとともに、それらに対応する人事管理はどうあるべきかについてお話しいただきました。
1980年代に国際社会の非難により労働時間短縮へ
先日、労働時間の上限規制などをまとめた内容が、厚生労働大臣の諮問機関である労働政策審議会を通りました。今後は国会に送られて労働基準法が改正されることになると思います。実は、この労働時間の上限規制について、厚生労働省内で研究会がありました。そこで、おおよその方向性を決めて、審議会に上がっていったのですが、私はその研究会の座長をしておりましたので、どんな気持ちで、またどんな議論があったのかについて、お話しさせていただきます。1980年代、日本企業は世界で強い競争力を発揮していましたが、国際社会から長時間労働に対する非難があったため、日本政府は年間の労働時間を1,800時間にするという「前川レポート」を出しました。これを受けて、当時の政府は有給休暇の完全消化、時間外労働の短縮を掲げ、労働時間短縮政策を推進し、1987年には労働基準法を改正して、週40時間労働、週休2日制の時代に入りました。しかし、現実には年間総労働時間1,800時間以下の実現は、パート労働者の増加によるものであり、正社員の労働時間は年間2,000時間強で、ほとんど減らなかったのです。このことは時間外労働についてみると、「36協定」や割増賃金によって削減するという方法が機能しなかったことを意味しており、新規制を考えざるを得なくなりました。
労働時間短縮は経営向上の引き金となる
労働時間の規制をなぜするのかと言えば、健康確保、ワークライフバランスの改善、公正競争の確保です。公正競争の確保については、特定の企業のみ労働時間を短縮し、競争相手の企業がそのままでは、短時間にした企業は不利になってしまうため、競争条件を一定にすることが必要となるからです。そしてもう一つ、経営活動との調和を取らなければなりません。従来は労働時間を減らすと経営が厳しくなるとの考えから、経営活動と調和を取りつつ、労働時間の規制を考えていました。しかし今回は、労働時間の短縮はむしろ経営力向上の引き金になるとの観点から、「攻めの時間短縮」という考え方を取っています。したがって、多様な人材の活用・能力発揮、新たな価値創造の実現、生産性向上のためには、労働時間の短縮は不可欠なので、経営力を高めるためにも必要だということが強調されています。長時間労働改善政策の作成上の留意点は3つです。1つ目は、労働時間規制が労働時間改善の唯一の方法との認識を持たれる方が多いですが、労働時間改善には働き方全般の改革が必要であり、労働時間規制はその一部です。それは長時間労働の背景に、伝統的な働き方、マネジメント、働く意識などがあるからです。2つ目は、労働時間を直接規制する政策(実態規制)、企業・労働者に改善を促す政策、改善のための社会的環境整備の3つの政策を組み合わせることが重要だということです。3つ目として、規制をしても守られなければ意味がありません。そこで、業界、職業、個人による多様な事情に対応できるものとして、「多様性配慮」と「履行確保」を考えた、労働時間の直接規制政策とすることです。これは、労働時間規制で最低限のボトムラインは決めますが、それを超えた労働時間短縮は現場に任せます。
「規模重視型経営」から「生産性重視型経営」への転換
労働時間規制政策の内容としては、時間外労働時間の年間の総量を設定し、毎月の時間は柔軟に決めることができるようにする。ただし、単月の最長時間の設定をして健康に配慮しています。さらに、業種、業務特性への特別配慮をして適用除外の設定をし、多様性にも配慮しました。この中で適用除外は2パータンあります。1つは、猶予期間を設けるもの、もう1つは完全に適用除外とするものです。具体的な職種などには言及せず、2つの方法だけを示していますが、法律案では適用除外はほぼなしの状態になっています。政策が企業に求める「攻めの時間短縮」とは、「生産性重視型経営」です。長時間労働をすると社員の健康障害の増加と時間当たり生産性の低下を招き、経営パフォーマンスが低下することになります。しかし、長時間労働は時間当たり生産性が低下しても成果の量は拡大することから分かるように、これまでの経営は「規模重視型経営」だったのです。そこで、求められる「生産性重視型経営」への転換を、研究会ではメッセージとして投げかけています。さらに、時間当たり生産性が向上すれば、時間外労働が減り、労務費削減につながるので、その削減労務費を、社員に対して適切に還元することも必要です。
同一労働同一賃金の実現は労働市場の日本型特徴に合わせて形成することが重要
ここからは、同一労働同一賃金についてお話しさせていただきます。当初は、同じ仕事をしたら、同じ給料を支払うべきという考え方が強くありました。そうした考え方は、ヨーロッパのように職務で賃金相場が決まることを想定し、日本でも正社員、非正社員に関わらず、同一賃金にするべきだと主張していました。しかし、ヨーロッパと日本では事情が違うとの意見もあり、それを受けて、同一労働同一賃金のガイドライン(集)が作られました。したがって同集は従来の同一労働同一賃金の法律は性差別等の人権に関する差別禁止の枠組みであり、雇用形態間の同一労働同一賃金への対応は、労働市場の構造によって異なるため、この実現は労働市場の日本型特徴に合わせて形成することが重要であるとしています。これが国際比較からの教訓です。
ガイドラインの基本的な考え方としては、正社員と非正社員の間の「不合理な格差」の存在を認識し、その改善を進めることが必要であり、同一労働同一賃金の実現は、労働市場、経営改革と合わせて段階的に進めなければならないとしています。これを急いだ場合、職域分離、非正社員の下位業務への固定化など、逆機能が顕在する恐れがあるからです。進める方向は、賃金決定ルールの明確化の促進で、手当から始めて基本給へとつなげていくものとしています。
ガイドラインの基本的な問題点
このガイドラインには、基本的な問題点があります。全体として、賃金要素間の相互関連の中で賃金制度が形成されていることを軽視し、ガイドラインが社員全体の賃金にどのような影響を及ぼすかについては配慮されていません。また、基本給において企業の長期的な期待の違いによって複数の社員タイプが存在し、社員タイプによって異なる賃金制度が適用されるという現実から離れて作られています。正社員は将来を期待して採用していますが、非正社員にはそこまで期待していません。つまり、ガイドラインは正社員と非正社員が同じ賃金制度であることを前提にしているのです。今の課題は、職能給の正社員と職務給のパートの均衡問題など、異なる賃金制度をとる正社員と非正社員間の均衡をどうするかにあるのです。この点について同案は、社員タイプによって将来の役割や期待が異なるので、賃金の決定基準・ルールに違いがあるという主観的・抽象的説明では不十分であるとしています。この「不十分である」の具体的な内容によっては、企業の人事管理は大きな影響を受けることになります。
職務手当などの諸手当については、ガイドラインの基本的な考え方は、手当の趣旨からして、支給されるべきであるにもかかわらず不支給であれば、不合理な格差としています。しかし、諸手当の性格は基本給では対応できない特別な職務、勤務に対する賃金であり、手当の支給の有無は基本給の性格に依存します。そのため、基本給の決定基準が異なる正社員と非正社員に同一支給を求めるのは、論理的に考えるとおかしいことなのです。
人材活用の統合化とそれに合わせた均衡処遇の実現が人事管理の基本的な課題
今後、単純に、同じ仕事は同じ賃金ではなくても合理性があれば問題ないため、企業はガイドラインに振り回されることなく、人材育成・活用の基本戦略に沿った合理的な賃金決定の実現に不断に取り組み、その中で非正社員の活用と処遇の改善を推進していくことが重要です。また、同一労働同一賃金を狭い職務の視点から捉えないことが大切となります。狭い職務の視点で同一労働同一賃金を捉えると、長期的視点に立って若年労働者を一人前に育てる、業務ニーズに合わせて仕事配分・配置を柔軟に行うという人事、管理の根幹に深刻な影響を及ぼします。そのため、同一労働同一賃金には多様な形態があるという、複眼的な視点を持つことが必要です。同一労働同一賃金のみでは、非正規労働者の処遇問題は解決しません。解決策の基本は、非正社員でもキャリア向上の道や制度をつくること、その道に沿ってキャリアを積む非正社員を増やすことです。つまり、人材活用の統合化とそれに合わせた均衡処遇の実現が、人事管理の基本的な課題となります。
賃金は内部公平性と外部競争性の2つの原則で決まる
同一労働同一賃金の問題が出てきたからではありませんが、企業としては賃金についてもう一度、考える時期に差し掛かっていると言えるでしょう。正社員と非正社員、あるいは正社員でも多様な社員が出てきますので、そのための理論武装をしておくことが必要です。賃金は内部公平性と外部競争性の2つの原則で決まります。内部公平性とは、賃金は企業にとっての価値に基づいて決定する、同一価値労働同一賃金を表す原則です。価値とは企業に対する貢献度であり、社内価値であります。労働能力があり、それを投入して仕事の遂行をし、成果を上げるという仕事のプロセスを念頭におくと、貢献度は成果とともに能力レベル、労働給付能力レベル、仕事の重要度から評価できます。
成果の大きさは結果価値で、能力レベルと労働給付能力レベルは将来価値、仕事の重要度は現在価値です。将来価値と現在価値は期待価値となり、どの内容で賃金を決めても構いません。このうち、例えば仕事の重要度をとると、それで社員の賃金序列は決まりますが、それに対応する賃金水準の組み合わせは、個々の社員に順番をつけていくと無限です。そこで水準設定をするには、人材確保の視点から市場相場を鑑みて決める必要があります。これが外部競争性です。
賃金の基本となる決定基準は仕事ベースも日本的な事情にも配慮する
これまでもお話したように、一言で社員と言っても、正社員とパート、正社員でも総合職と一般職など多様化しているので、賃金の基本となる決定基準は仕事ベースとなります(仕事原則)。しかし、これだけではなく、配慮すべき日本的事情があるのです。一つは正社員と非正社員のうち、正社員は残業をしますし、転勤もします。一方で、パートは残業をしないし、転勤もしないなど、働き方によって制約の違いがあります。正社員を無制約社員、パートを制約社員とすると、企業としては活用可能度が変わってきますので、価値(つまり賃金)にも違いが生じます。これが制約配慮原則です。また、日本では、新卒採用をして育成している間は、簡単な仕事をしています。ある時期は、正社員とパートが同じ仕事をしていることもあるでしょう。その場合、仕事ベースで賃金を決めると、正社員の賃金を下げなければなりません。そのため、長期雇用型の社員の賃金については、育成期は能力レベルにする必要があるので、これを育成配慮の原則と言っています。ですから、仕事ベースで賃金を決めますが、日本的事情を考慮しながら、制約配慮原則と育成配慮原則を組み合わせて決める必要があるのです。
ガイドラインに振り回されず多様な社員に合った賃金設定を
さらに人材の確保には市場相場に対する配慮をしなければなりません。例えば、同じ仕事のパートで社内価値は同じでも、地域によっては賃金に違いが生じます。これが、外部競争性にあたる市場原則です。これまで示してきた諸原則の組み合わせによって非正社員を含む多様な社員に適合する制度の設計が可能で、その諸原則は同一労働同一賃金を考える基本的な枠組みとなります。その際に重要なことは、どの組み合わせが最適なのかは個々の企業の事情によりますし、同一労働同一賃金を実現する賃金決定ルールには、多様な形態が存在するという複眼的な視点を持つことです。いずれにしても、今後は同一労働同一賃金の動きが広がっていきますが、あまりガイドラインに振り回されることなく、合理的な賃金決定をし、そのための理論武装をしながら、多様な社員に合った賃金設定を進めていただきたいと思います。