日本経済の変化と企業経営

HRサミット・経営プロサミット2015講演レポート。「日本経済の変化と企業経営」をテーマに東京大学大学院経済学研究科・経済学部 教授 伊藤 元重氏による講演の模様をお届けする。

東京大学大学院経済学研究科・経済学部 教授
伊藤 元重 氏
現在、税制調査会委員、復興推進委員会委員長、経済財政諮問会議議員、 社会保障制度改革推進会議委員、公正取引委員会独占禁止懇話会会長を務める。著書に『入門経済学』(日本評論社、1版1988年、2版2001年、3版2009年)『ゼミナール国際経済入門』(日本経済新聞社、1版1989年、2版1996年、3版2005年)『ビジネス・エコノミクス』(日本経済新聞社 2004年)『ゼミナール現代経済入門』(日本経済新聞社 2011年)など多数。

アベノミクスがステージ2に入り、さまざまな改革が動いている

 この数カ月、上海やロンドンやニューヨークで講演をしてきました。海外の人たちはいま日本で何が起きているのかを知りたがっていて、私は、「現在はアベノミクスのステージ2である」という切り口から話を始めました。安倍内閣の前は6年間に6人の総理大臣がいたという状況で、大きな改革や変化は出てくるはずがありませんでしたが、安倍内閣は長期政権になりそうです。政策のレベルでいろいろな変化が起きていることを、みなさんもお感じだと思います。

 電力会社から発送電を分離するなどの電力システム改革をはじめ、さまざまな改革が目白押しですが、一番成果が出たのはビザの解禁です。2012年には815万人だった外国人訪日者が今年は1300万人を超えると予想されていたのが、いまでは1600万人まで行くのではないかという勢いです。外国人訪日者は2020年の東京オリンピックまでに2000万人に増やそうというのが目標でしたが、3000万人ぐらいに上げた方がいいという議論も出ていて、このことがさまざまな産業に影響を及ぼし始めています。

 また、大きく変わりつつあるのが農業です。農協改革はまさにいま動いていますが、もっと重要なことは、50%の確率ですが年内にアメリカとのTPP交渉がまとまることで、もし年内がなければほぼ確実に次の大統領の最初で決まります。年内にTPP交渉がまとまれば、EUとのEPA交渉もかなりの確率で年内にまとまる可能性があります。こちらも大変大きなインパクトがあります。

現在の日本経済は、冷え切った水が入った「五右衛門風呂」

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 そして、アベノミクスのステージ1、つまり安倍内閣が発足して最初の2年、2013年と2014年に日本経済はどう変わったか、変わらなかったのかということも、きちんと押さえておく必要があります。

 まず、企業の収益が5割近く上がりました。株価は8800円からすでに2万円に上がっています。失業率は4.1%から3.4%まで下がって人手不足になっています。政府の税収は10兆円ほど増えていて、2015年までに政府のプライマリーバランス、財政の基礎的収支の赤字は2010年に比べて半分になりそうです。それから物価上昇率、特に重要なのは、家計や企業が将来の物価の変化をどう予想しているかを示す予想物価上昇率ですが、安倍内閣が出てくる前はマイナス1%のデフレだったのが、いまはプラス1%ぐらいです。

 でも、マーケット、経済がこれだけ変わったにもかかわらず、消費と投資と輸出の動きはとても鈍い。ここが日本経済の非常に重要なポイントです。学生には「これは五右衛門風呂だ」とよく言っています。若い人にはなかなかわかってもらえませんが、金属製の風呂で、湯をわかした中に木の板を沈めて入るものですね。

 なぜこれが日本経済かというと、アベノミクスは最初の2年で火を燃やして風呂釜を熱々状態にしました。日本経済はすばやくそれに反応して、企業収益や株価や物価上昇率に現れているわけです。それでも消費と投資と輸出が伸びない。20年間デフレで風呂釜の中の水が冷え切っていて、簡単には温まらないからです。20年間デフレにつかってきて、日本企業はなかなか投資を増やさないし、消費者も消費を増やすことに慎重だというのが現実です。

40年に1回あるかどうかの「3安」がもたらすインパクト

日本経済の変化と企業経営
 したがって、アベノミクスがステージ2に入ったこれからは、熱々になった風呂釜が経済にどういう影響を及ぼすか、いまのマクロ経済環境が企業経営にどういう意味があるのか、そして、政府が消費や投資や輸出を伸ばすために何をやるのかということが重要なポイントです。言い替えれば、風呂釜の水が本当に温まるのか、あるいは温まるために何が必要なのか、そのために企業は何を考えなければならないかということです。

 私はいまの経済環境について「3安」と呼んで議論をしています。どういうことかというと、世の中には、いま、べらぼうに安いものが3つあります。1つ目は石油と天然ガス。大幅な価格下落によって来年はGDPの2%分、10兆円の景気押し上げ効果があるという人もいます。マクロ経済的に見ると大変なインパクトです。2つ目は金利で、予想物価上昇率が名目金利より高いという、過去40年間1回もなかったことが起きています。これを専門家は実質金利がマイナスだと言います。超の上に超がつく低金利です。3つ目は為替レートで、これも実質実効為替レートでみると、1973年、1ドル300円だったころより円安です。

 要するに、石油天然ガスも、金利も、為替レートも、40年に1回あるかないかというくらいの極端な安い値段であるわけで、このことが持っている経済的なインパクトを理解しておく必要があると思います。

実質金利はマイナス。物価は上昇。経営者は手持ちの資金をどう使うか

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 「3安」の中でも一番重要なのは、実質金利がマイナスだということです。
 デフレの間に、日本の国民の資産は、世界的に見てもこれほど預貯金に偏った資産運用をしている国はないというぐらいの勢いで預貯金にシフトしました。物価上昇率がマイナスだからよかったのですが、今後、仮に毎年2%物価が上がると、普通預金を持っている人は毎年間違いなく資産が2%ずつ目減りします。10年持っていれば複利で22%、資産の4分の1を失ってしまいます。ですから、デフレから脱却した中で資産運用を見直す動きが出始めて、投資信託などに入って来る金額は過去最高になりつつあります。今後、個人の持つ金融資産、1600兆円のうち10%が株式に動くだけで160兆円。大変なことです。

 もっとも、ここ数年、貯蓄が激しかったのは家計より企業ですね。利益が上がっても投資しないで借金の返済に回す。返済が終われば内部留保に回していく。マクロデータで見ると内部留保はすさまじい勢いで増えています。デフレのときは無理して投資をして失敗するより、借金を返して、内部に資金を貯めるのでもいいわけです。物価は下がっているから持っていても目減りするわけじゃありません。でも、実質金利がマイナスになって、これから物価がさらに上がっていくとすると、それでも動かない資金を手元に持っている経営者は失格なのです。どんどん目減りしていくのですから。

 この状況で、企業の経営者には手持ちの資金をどういうふうに有効活用するかが問われるわけで、理屈で考えればキャッシュアウトして使うしかありませんし、使い道は、投資するか、賃金を上げるか、株主に返すかという3つしかありません。

 今後の日本経済の最大のリスクは、いまの超円安がどこかで大きく円高に反転することです。ただ、円高になれば、たくさん日本に来ている外国人観光客が減るかというと、必ずしもそうじゃない。アジアの中間所得層がすごく増えているからです。アジア全域で過去10年に中間所得層が8億人増え、このままいくと10年後にはさらに10億人増えるという推計もあります。日本の消費財メーカーにとっては絶好のチャンスです。

 これから2020年の東京オリンピックに向けては、官民でいろいろなことが大きく動きます。本当に2000万人、3000万人、外国から人が来るようになると、これはもう日本の経済構造がガラッと変わります。インフラ整備もすごく重要で、これから都心では渋谷の再開発や、JRが田町と品川の間に新駅をつくるなどの大開発が進んでいきますし、羽田と成田だけでは足りないということで、地方空港にも大きな変化が起きて、関西国際空港や仙台空港は民間に完全に経営を委ねてしまう大改革をやっています。

次は民間が動く番。企業の「稼ぐ力」が問われている

日本経済の変化と企業経営
 このような状況が企業経営にどう影響するかですが、昨年の年初ぐらいから「次はいよいよ民間が動く番です。企業は何をやるのですか」ということが問われてきて、「稼ぐ力」が日本のキーワードになっています。要するに、ROE(売上高利益率)を比較すると、日本の企業は海外の同業企業より悲しいぐらい低い。なぜなのかを考えて、稼ぐ力をもっと強くする必要があるということで、経済産業省の「日本の『稼ぐ力』創出研究会」で議論をしています。私は座長を務めていますが、いろいろな業種について欧米企業のベンチマーク分析をやっていて、ホームページで情報を流しています。非常に参考になると思います。

 なぜ稼ぐ力が弱いかを考えると、残念ながら、日本企業が経済環境の変化に完全に遅れてしまっているからです。その変化を3つだけ挙げると、グローバル化、ITCに代表される技術革新、少子高齢化あるいはそれに伴う人手不足です。変化に乗り遅れた最大の理由はデフレです。投資するより借金を返した方がいいと、改革に背を向けて守りに入っていたわけです。

 それが経営にどう出てきているかですが、たとえばグローバル化について言うと、我々の経産省の研究会で最初に議論したのが重電のケースです。重電といえばアメリカのGE、ドイツのシーメンス。日本では日立、東芝、三菱重工が代表的な企業ですが、日本の3社のROEはGE、シーメンスに比べて低い。ただ、シーメンスは1990年までは非常にROEが低かったのが2000年を越えたあたりから上がっています。実はその時期、シーメンスは虎の子の半導体をアメリカのファンドに売りました。

 結局、グローバル化の世界で勝ち残るためには、選択と集中をある程度やらないと厳しいわけです。シーメンスはほかにも大物の情報通信を捨てて、重電、産業機械、メディカルを選択と集中の対象としました。一方、日本の3社は重電も家電も…と選択と集中が進んでいるといえません。これで国際競争に勝てるか、真剣に考える必要があるということです。

 いずれにしても、企業に問われているのは、変化にどう対応していくか、稼ぐ力をどう強くしていくか。ボールはすでに政府側のコートから企業側のコートに来ているというのが、現在の状況だと思います。