大手不動産会社を起業。一時期、50年前の月給は500万円以上。現在の物価なら数千万円相当の月給である。そうした華々しい世界からある日突然、1杯40円のそば屋を起業し転身…。
月給500万円を稼いでいた時から50年後の現在。そば屋事業を海外展開しつつ、25年前からは「作詞家」としても活動中という。
その人とは、丹道夫氏80歳。首都圏と東南アジアでそば屋事業を行う「名代富士そば」の会長を務める傍ら、作詞家・丹まさとのペンネームを持つ。つんく♂氏の曲に歌詞を付け、五木ひろしにも詞を提供している。
0からの起業と作詞。まったく関連性のないふたつの仕事を、丹氏はなぜ始めたのか。なぜ続けるのか。そしてその意味とは。思い浮かぶ疑問のすべてを丹氏にぶつけてみた。
— 丹さんはご出身が愛媛だそうですね。上京なさった理由はなんでしょうか?
丹:商売をするなら東京だと思ったからですね。東京で、栄養学校に通った後に商売を始めました。栄養学校時代の知り合いから誘いがあったんです。「一緒に弁当屋をやらないか。叔父から17万円借りられるから」と。
その17万で4.5坪土地を借りて、バラック小屋を建てて弁当屋を始めました。工場向けの弁当販売をやったんです。毎日朝3時に起きて仕込みをやってました。
— そこから飲食業への第1歩が始まったのですね。弁当屋はどれくらい続けていたのですか?
丹:2年ほどです。その頃には1日600食を製造販売するくらいにまでなってました。弁当屋が軌道に乗ったころ、今度は「不動産屋を始めないか?」という話が転がり込んできたんです。
— 弁当屋につづいて不動産屋も!チャンスを引き寄せる力が丹さんにはあるのでしょうか?
丹:僕には話しやすいのでしょうね(笑)。いろんな話が今も飛び込んできますし。その時私を誘ってくれたのが、とある大手不動産会社の人と友人、私を含めて合計4人で共同創業したんです。かなり儲かってました。
— 当時の日本は、高度成長期ということもあるのでしょうか?
丹:そうですね。1964年から1972年にかけて不動産会社を共同経営してましたから高度成長期にあたります。主な事業は、別荘の販売。日本列島改造論で盛り上がっていた頃、ドンドン別荘が売れだしちゃって(笑)。
友人とはじめた会社が8年後には社員が1000人を超えました。わたしの月給も500万を超えるくらいになってね。2016年の物価で考えると月給数千万でしょうか。
— その絶好調の時期に富士そばを始めたのですか?
丹:その頃、分厚いステーキを毎日食べたり、赤坂の有名高級クラブ・コパカバーナにしょっちゅう通っては当時の価格で3万円を毎晩接待で使っていました。でもある日、金がたくさんある暮らしが嫌になったんです。
それで、電車に乗って東北地方へ旅をして、駅のホームでそばを食べた時、思いついたんです。注文したらそばがすぐ出てくる商売は、みんなが忙しく働いている東京でこそ合うな、と。
— 福島に行って高校入学を決意したように、東北に行くといろいろと転機があるのですね。
丹:確かに不思議な縁かもしれません(笑)。ただそれだけではなく、当時の日本列島改造論という波はすぐ終わるだろうと感じていたんです。いつかは全てダメになる、と。
そこで、会社の仲間が食っていけるだけの商売を仕込んでおくべきと思って富士そば1号店を1968年に渋谷へ出したんです。そういう絶頂のときこそ次の手を打たないと、と思ったわけです。本業の不動産業は部下たちに任せていました。それで空いた時間に、新宿と池袋、西荻窪と渋谷を合わせて合計4店の富士そばを出店しました。
— 空いた時間に富士そば…。副業的な雰囲気があります。
丹:次のことを考えていくのは働き方を考えるときに重要です。裕福になると、共同経営者と考え方の違いも生まれてその不動産会社をやめました。それで、富士そば事業を譲り受けて独立したわけです。
それまでは、1ヶ月の売上が30億。利益は7億。そういう状態は続かないだろうということで、1杯40円のそば屋に注力したんです。
— 1ヶ月30億円の仕事から、1杯40円の仕事へ転身とはすごい変化です!
丹:驚きますよね(笑)。いろんな仕事をしてきたけれども、このあとの人生はそば屋の仕事に捧げようと思いました。そば屋という仕事を信じてその後50年、富士そばを続けて来ました。
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富士そばの経営者であると同時に、作詞家というもうひとつの顔がる丹さん。
その活躍ぶりと副業と本業の力の入れ方について、続きはこちらからお読みください。
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