「働くこと」基礎概念講座9-1
部課長の対話力〈1〉~上司は「客観的評価」に逃げていないか
◆部下は「正論」より「熱のある話」を聞きたがっている
世の部長・課長は「部下のマネジメント」という名目の下に学習熱心です。さまざまに研修・セミナーを受け、ビジネス書を読み、いろいろな知識・技術を吸収しています。
例えば、部課長は管理職に上がったときに「人事考課者研修」を受け、部下の評価をいかに客観的に公正に行うかを学びます。そこでは評価者が陥りやすいエラーとして、「ハロー効果」や「寛大化傾向」「中心化傾向」「理論的錯誤」などがあることを学びます。また、人事評価制度に基づく客観的な事実のとらえ方や、査定方法、運用方法、面談方法などをこと細かに勉強します。さらには部下とのコミュニケーションを改善しようと「コーチング」を学んだりもします。そして「答えはあなたの中にある」という奥義を知ります。
私はこれらの学習は必要であり、大事な知識吸収だと思っています。私自身もサラリーマンの課長時代、こうした研修を受けさせてもらったものです。しかし、少なからずの部課長たちが、その習った知識や技術に“逃げている”部分があるのではないかとも感じています。
人事考課者の研修では、部課長は、一にも二にも「客観的であれ。客観的な事実を把握し、それによって判断し、伝えよ」と教わります。しかし部課長が客観性に留まっているだけで部下は動くのでしょうか。上司との面談において、
部下は、「正論」より「熱のある話」を聞きたがっています。
部下は、「評価」より「自分の存在意義」を求めています。
部下は、「データ」より「意味・やりがい」に耳を傾けます。
部下は、「現実の分析」より「未来の期待」によって動きます。
部下は、「詰問」より「自問」によって考え始めます。
部下は、「客観的事実」より「主観的想い」を雑多にぶつけられる中で
「この上司と一緒にやっていく!」かどうか、肚を決めます。
「客観的に冷静であれ」ということを金科玉条のごとく守っている上司は、往々にして、自らの担当事業について熱をもっていない、自分の意志を自信を持って部下にぶつけられない、自部署のやっていることの意味や意義を語れない、部下の成長イメージを描けない、などの場合があるのではないでしょうか。ですから、彼らが唯一頼れるのは「客観的でいる」ことなのです。
コーチングのエッセンスである「答えはあなたの中にある」という問いかけもそうです。少なからずの上司が、このフレーズに逃げ込んでいないでしょうか。「上司が自分の主観的な意見や想いをいたずらに部下に言ってしまわないほうがよい。彼(彼女)自身が答えを出さなくなってしまう」―――これを都合のいい理由にしながら、実は、上司本人は部下にぶつける「コンテンツ(言うべき中身)」を持っていないのではないでしょうか。
もっと困った上司は、部下と一対一面談をするときは「真正面どうしで座らず、90度の角度をつくるように座るのがよい」というテクニックだけを覚えて、それを実行することで何か部下マネジメントが上達した気になっていることです。ピーター・ドラッカーは鋭くこう指摘しています。
「どのように話すかという問題が意味を持つのは、
何を話すかという問題が解決されてからである」
───『プロフェッショナルの条件』より
「how to say」という技術ではなく、「what to say」という中味こそ、部課長が真に問われる問題です。公正で透明な人事評価の運用は大事です。しかし、それは主に「衛生要因」としてはたらくだけで、「動機づけ要因」としては非力です。部下が大いに動機づけされるためには、上司は強い主観を持ち、言うべき中身をどんどん彼らにぶつけなければなりません。そしてそこには対話というコミュニケーションがどうしても必要になってきます。
◆コミュニケーションの基本要素「3つのC」
部課長が部下に対して行うコミュニケーションを極めて単純な形で言い表すと、次のようなものになります。
部課長は、
〈1〉状況文脈をつかみ、その文脈に乗せて
〈2〉語るべき内容を持ち、
〈3〉もろもろの振舞いを通して、部下に対し意志疎通を図る。
ここに出てきた3つの要素;
・「文脈」(Context)
・「語るべき内容」(Contents)
・「振舞い」(Conduct)
は、どれを欠いてもコミュニケーションが成り立たない大事な基本要素といえます。英語表記の頭文字を取って「3つのC」と呼ぶことにします(図1)。
コミュニケーションは双方向ですから、実際は図2のように、部課長には部課長の3つのCがあり、部下には部下の3つのCがあり、これらが相互にやりとりされる形になります。
〈1〉状況文脈をつかみ、その文脈に乗せて
よいコミュニケーションは自分の言いたいことを一方的に押し放つだけでは成立しません。文脈をつかむという受信作業、そして文脈に乗せるという発信作業があってこそ効果的に成立します。ここで言う文脈とは、上司/部下間に漂う空気とかそれまでのやりとりの過程、両者の関係性、担当事業の進捗する具合、組織風土、社会情勢など、当事者を取り巻く諸状況を指します。
図2を見てわかるとおり、部課長と部下が同じ状況におかれていたとしても、部課長には部課長の文脈があり、部下には部下の文脈があり、双方の文脈はまったく同じではありません。なぜなら両者には問題意識の差や情報感度の差などがあり、部課長側が感じ取る文脈と、部下側が感じ取る文脈にはズレが出て、それぞれのものになるからです。
部下とのコミュニケーションに優れた上司は、部下が感じ取っている文脈がどんなものであるのかまでをも含んで文脈を読み取り、やりとりをします。いずれにしても、部課長として部下に「何を・どう語る」のかは、こうした文脈の上にしっかり乗っていなくてはなりません。
〈2〉語るべき内容を持ち
コミュニケーションの核となるのは、何と言っても「語るべき内容・伝えるべき中身」です。部下を動かしたり、部課長が信頼されたりするのは、最終的にはその部課長から「何が語られたか」なのです。
ビジネス現場にはあらかじめの正解値がない問いばかりです。そんな中で、対話力のある部課長とは、どんどん自分の考えることを部下にぶつけます。そして、部下はそれに刺激を受け、自分なりに考えることを始めます。部課長の「語るべき内容」の量と質に応じて、部下は何らかの反応を示すものです。そして部下からの反応と、部課長の考えとを戦わせながら、第三の答えを未知の中につくりだしていく、これがよい対話がなされている姿です。
〈3〉もろもろの振舞いを通して
コミュニケーションにおいて、語るべき内容は発信者側のいろいろな行為によって相手に伝えられます。相手と直接対面しながら口頭で話しをする、これは最もわかりやすい行為の形ですが、対面せずとも言いたいことを伝える形もあります。手紙やメールがそれです。
また、話しをしたり、文面で伝えたりといった言語的な形もあれば、無言でつくる顔の表情や真剣になって取り組む背中など、非言語的な形でこちらの気持ちが伝えられることもあります。そのようにコミュニケーションは発信者自身の心情や人柄、人格までもが滲み込んだ振舞いによって届けられるのです。
◆対話とは「正・反・合」の共創作業である
コミュニケーションの中で、最も建設的で、しかしながら最も根気を要する形が「対話」です。対話を本記事なりに定義すれば、「考えていることを真摯に開き合い、互いが当初よりも高い次元の考えにたどりつこうとする語り合い」となるでしょうか。
ジャーナリストの立花隆氏は次のように書いています。―――「会話というのは、それ自体が一つのダイナミックな過程であり、対話者同士のインターアクションによって展開していくものである。弁証法(ディアレクティケー。もともと対話術の意味)的に会話をうまく展開させられれば、それはインターアクティブであることによってより高次元の認識に達することができる過程となる」。(『二十歳のころ』より)
ここで出てきた「弁証法的な発展」とは簡単には次のようなことです。一方に〈正〉という考えがあって、他方に〈反〉という考えがある。その双方が議論を重ねて、〈合〉という「第三の知」を新しく生みだすこと(図3)。
上司と部下との対話もまさに「正・反・合」の共創です。別に表現すれば、「1+1=3」です。つまり、上司が「1」という自分の考えを差し出し、部下も「1」という考えを差し出す、あるいは上司が部下の「1」を引き出して傾聴する。そして新しい気づきである「3」を互いが得る。
対話とは単に双方が気休めで雑談しているものではありません。高次元の結実を求める意志的な協働です。そしてこの協働によって生み出される「第三の知」こそ、組織文化の源となり、環境変化に対応していくための推進力になるのです。
◆互いの「べき・はず論」を超えて「共有目的」を置く
対話が重要な作業であるのは誰しも感じることなのですが、上司と部下において、なかなかこれができません。それはなぜでしょうか?―――それは図2でみたとおり、上司には上司の文脈があって、上司はそこに乗ってコミュニケーションをしようとし、一方、部下には部下の文脈があって、部下はそこに乗ってコミュニケーションしようとするからです。
たいてい両者の文脈にはズレが生じていて、そのズレが大きければ大きいほど対話はかみ合わなくなります。上司も部下もそれぞれが自分の「べき論・はず論」を前面に立てていて、歯車が共創回路に入らないからです。
では、どうすれば対話がかみ合い共創回路に入りやすくなるのか。―――それには「共有目的」(Common Purpose)を設定することが必要です。
会社という全体組織にしろ、部課という小単位の組織にしろ、それはいろいろな背景をもち、いろいろな考えや性格をもった人びとが、たまたま居合わせるようになったモザイク的な集団です。そんな人びとの集団の中で、雑談を超え、会議を超え、命令を超え、対話が起きるためには目的が欠かせません。同じ目的を見晴らし、その目的実現のために組織はどうあるべきか、各人は何をすべきかと考えるとき、対話は起こりやすくなります。つまり、図4のように、上司も部下も互いの文脈の中に、共有する目的を置ければいいわけです。
ここでさらに重要なことを言います。―――「目的」とは何でしょうか?
目的は「目標」とは違います。図4において、「共有目的」の箇所を「共有目標」と置き換えてはいけないのです。共有目標の下には対話は起きません。下手をすると分裂すら起きます。
目的と目標の違いは、端的には「目的=目標+意味」によって表わされます。つまり、目標とは単純に目指すべき方向や状態を言います。目的はそこに意味や意義が付加されたものです。
目標はある種、冷徹なもので、定量・定性的に表わされ、ひたすらそれを達成することが求められます。ですから、上司と部下が「共有目標」を間に置いてコミュニケーションをするとどうなるか?―――両者の関心は、もっぱらそれを達成する手段や方法論に偏り、最終的にはその目標が「できる・できない」について神経を尖らせ合うという結果を招きがちです。そこにはもちろん対話は生まれません。最悪の場合、「給料をもらいたんなら、つべこべ言わず目標をクリアしろ!」と、上司が一喝して終わりということにもなりかねません。
一方、上司と部下が「共有目的」を間に置いてコミュニケーションをするとどうなるか。両者の関心は───
「なぜ、我々はこの目標を成し遂げる必要があるのか?」
「我が社・我が部が行う事業の意義は何なのか?」
「その意義に照らし合わせてみて、現状の目標が適切なのか?」
「この目標を達成することは自分自身のキャリアにとってどんな意味があるのか?」
といった観点になる。そこには、意味創出のための対話が必然的に起こってきます。共有目的とは、分かち合える理念やビジョンと言い換えてもいいでしょう。いずれにしても、このことを部下とともに語らおうとすれば、部課長はしっかりとした「観」を自身の中に打ち立てておく必要があります。なぜなら、目的は意味論・価値論をベースに語られるものだからです。
◆部課長の対話こそ組織の自律的成長の起点
このように対話を行うことは、部課長にさまざまなことを要求してきます。文脈を読むこと、語るべき内容を持つこと、そのために観(仕事観、人財観、キャリア観、組織観、社会観)をつくること、そして部下と目的を共有し、さまざまな振舞いを通して語ること―――さて、こうした対話の起こせるベースをきちんとつくっている部課長が、あなたの組織にどれくらいいるでしょうか?
指示・命令がうまくできる部課長がいるかもしれません。
客観的で冷静に部下を評価できる部課長がいるかもしれません。
気さくに冗談を飛ばして人気のある部課長がいるかもしれません。
しかし、腹応えのある対話のできる部課長は少ないものです。
しかし、この対話のできる部課長こそ、組織を自律的にさせるために不可欠な存在です。なぜなら、対話とは上司の「1」と部下の「1」をぶつけ合って、「3」を生み出す作業だと書きましたが、この「1+1=3」こそ、その組織の自律的な成長プロセスにほかならないからです。
日ごろの職場で、主観的な想いぶつけながら部下に思索・啓発を促し、部下とともに目的を語り、対話の中から進むべき解を探り出していく部課長が1人1人増えていくことこそ、個と組織が強くなる確実な道のりです。
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