〈考える材料1〉
ダイヤモンドの2つの価値
ダイヤモンドには2つの「価値」側面がある。つまり、ダイヤモンドは高価な宝石として取り引きされる一方、研磨材市場においても日々大量に取り引きされているのだ。前者は「財」(たから)としての価値が扱われ、後者は「材」としての価値が扱われている。
1粒1粒のダイヤモンドは、産出されるやいなや、「財」商品に回されるか、「材」商品に回されるか決められてしまう。その両者の境界線はどこにあるのか───それは「代替がきく」か「きかない」かである。
「財」はその希少性・独自性から代替がきかない。だから大粒のダイヤモンドは宝飾品として重宝され、高い値段がつく。石によっては、家宝として代々受け継がれるものもある。時が経ても価値は下がらない。
他方、研磨材として利用されるダイヤモンドは、石粒のなかに異物や空気が混じっていたり、小さかったりして宝石にならない。採掘量は多い。硬いという性質から研磨材に回されるわけだが、使い減ってくれば、やがて新しいものに取り替えられる運命にある。消耗材としてのダイヤモンドの姿がそこにはある。
ダイヤモンドにみる「財」と「材」の価値差は、私たち一人一人の働き手にもまったく同じことが当てはまる。「その仕事はあなたでしかできない」と言われる人は、代替がきかないゆえに「人財」である。逆に、「その仕事はあなたがやっても、他の人がやっても同じ」と言われてしまう人は、代替がきくゆえに「人材」なのだ。
景気に左右されず、いつの時代にも「財」としてのヒトは足りないものだ。ピーター・ドラッカーは『プロフェッショナルの条件』の中で医療機関を例に出し、病院には技術機器が多く投入されているが、ヒトは減っていない。逆にそれを使いこなす高度で高給なヒトが余計に必要になっている旨を書いている。
労働力を二分化して、「財」としてのヒトは正規社員で、「材」としてのヒトは非正規社員で賄おうとする考えは単純で明快だが、現実課題は複雑である。正規社員は雇用が長期で守られているがゆえに、惰性がはたらいて「材化」に陥る危険性がつねにある。また、人手不足の状況にあって、非正規社員を一斉に正規社員に転換する動きがあるが、そのコスト増加分をどう取っていくかといえば、やはり彼らを「財化」して、各人にかけがえのない仕事をしてもらうことが本筋だ。
ヒトの就労意識や働きぶりの「材化」を防ぎ、どう「財化」を促していけるか、これこそ人材育成担当者の大きな課題となる。
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〈考える材料2〉
ヒトを資源とみるか資本とみるか
最近、名刺交換をすると、「人財開発部」とか「人財育成担当」とか、“人材”という表記ではなく、“人財”という漢字を当てる会社が増えてきたように思う。これは、それだけヒトが重要だと認識する組織が増えてきた流れであるのだろう。
私たちの家の中には、火事などで消失してしまいたくない物がたくさんある。成長と共に使い慣れてきた箪笥、思い出の詰まった写真アルバム、海外で買ってきたお気に入りの食器、プレゼントでもらった置時計、新品のスーツ、最新機種の大型液晶テレビ、データを蓄積したパソコン……これらはみんな「家財」である。財(たから)の価値がある。
同様に、組織で働くヒトは、大事な「財」である。だから「人財」と書きたい。「人財」という表記は、ヒトを大切に思いたいという意思表明なのだ。
これは英語表記でも同じことが言える。日本でも一般化している「HR」とは“Human Resource”のことだ。これは、ヒトを“資源”とみている。このとらえ方の下では、ヒトは使い減ったり、適性がよくなかったりすれば取り替えればよいという発想になる。そして経営者は、ヒト資源を他の資源(モノ・カネ・情報)とどう組み合わせて、最大の成果を出すかをひたすら考える。ヒトは「材」という考え方に近い。
その一方で、“Human Capital”という表記も増えてきた。これは、ヒトを“資本”とみる。この場合、ヒトは長期にわたって価値を生み出すものであり、生産のための貴重な元手ととらえる。したがって、経営者は一人一人に能力をつけさせ、そのリターンをさまざまに期待する発想をする。すなわち、「人財」の考え方だ。
〈合わせて読みたいグループ記事〉
○3-1:「人材」と「人財」の違いを考える[上]
○3-2:「人材」と「人財」の違いを考える[下]
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