「感情」とは自分とは何者か…を知る術。
【第1回目コラムはこちら】人間が「恐い」という感情を持つのは、自己防衛本能であるともされる。
近寄ってくる猛獣を見て、「恐い」=「逃げよう」というのは、自らを守るための自然な感情である。
少し哲学の分野に目を向けてみる。
中世のフランス哲学者であるニコラ・ド・マルブランシュは、「感情」は自分と対象物との「ちょうどいい」状態を現すものであるとしている。自分が注意を向けている何かとの関係や距離感が「ちょうどいい」ときに、「感情」が現れるというのである。
例えば、理不尽な要求をしてくる顧客に対して、「嫌だ!」あるいは「怒り」という感情が現れるとき、その「感情」がその顧客との関係や距離感を的確に知らせてくれる。感謝の意を表してくれる顧客に対して、「嬉しい」という感情が現れたならば、それがその顧客との関係や距離感であるということになる。更にマルブランシュは、「否定的な感情も、肯定的な感情も、全ての感情は「喜び」である」という。自分と対象との関係や距離感は自分の「感情」よって知ることができる。それこそが「自分とは何者か?」を知る術だからであるからこそ、感情は全て「喜び」だというのである。
その考え方に従うならば、職場で現れる「感情」は、自分と顧客、同僚、会社、職場、仕事に対する関係や距離感を教えてくれていると言える。
職場で現れる「感情」が身体の健康をも蝕むようなものであるならば、自分にとって好ましくないものとして、距離を置いた方が良いかも知れない。少しでも愉快な「感情」が現れるならば、より距離を縮めると、もっと良いかも知れない。
「感情」というものを、物事に対する「結果」として見るのではなく、自分と対象との関係や距離感を知る術、と、考え方を変えてみても面白い。
感情は全て自分の目的達成のためのツール
最近ビジネス分野においても「アドラー心理学」が注目されている。アルフレッド・アドラーは、フロイト、ユングと並ぶ三大心理学者の一人である。フロイトやユングが「感情」の「原因」を探ろうとしたのに対し、アドラーは「感情」を「目的」論として捉えようとした。彼によれば、「感情は全て自分の目的達成のためのツール」だという。
例えば、顧客が店員の些細なミスに対して大声で怒ったとする。アドラーに従えば、顧客は「怒り」という感情があったから大声で怒ったのではなく、大声で怒ることにより店員を屈服させたかったから、怒った。ということになる。一般的な考え方からすれば、「原因」と「目的」の逆転である。
顧客に大声で怒られた店員は、顧客に対して、否定的な感情を抱くかもしれない。「(顧客に対して)嫌いだ」と感じるかも知れないし、「自分はこの仕事に向いていない」と「自己嫌悪」に陥るかも知れない。この場から早く立ち去りたい、あるいはこの仕事を早く辞めたいから、「嫌いだ」あるいは「自己嫌悪」という感情が現れた、と考えることが出来る。
アドラーは「承認欲求」をも否定する。人は顧客や上司からの承認を得たいが為に仕事をするわけではない、というのだ。一般的には、顧客や上司からの承認は、仕事に対するモチベーションと考えられている。しかし、相手はいつも自分の期待通りに承認してくれるわけでない。承認欲求に頼っていると、「承認されなければ、やる気が出ない」「承認されなければ、仕事したくない」という事になってしまう。
前回、相手が「『負い目感情』を拒否」した場合の反応として、(A)共有して貰えるよう頑張ってレベルアップしないと。というパターンと、(B)疲弊。というパターンが生じる事を指摘したが、「疲弊」というのは、正に「自分が期待していた通りの承認をしてくれなかった」事に対する反応ではないだろうか。
そこで「感情労働」の問題を解決する一つの方法として挙がってくるのが、アドラーのいう「課題の分離」である。
「自分がこんなに顧客のために頑張っているのに、相手は喜んでくれない。」
「部下のためにこんなに必死に教えているのに、部下は期待に応えてくれない」
アドラーによれば、「それは自分と相手との境界線が上手く引けていないから」だということになる。自分の頑張りと相手の喜びは、別の課題であり、自分の必死さと部下の行動は、別の課題なのである。
自分の感情と同じ感情を相手に求める。しかし、相手は異なった環境で、異なった性格で、異なった価値観、異なった立場にある。そのような相手に同じ感情を求める事は、相手を「支配」しようとしているとも言える。「支配」に失敗したとき、「感情」は疲弊するのである。
前回、「『負い目感情』の共有」も「『負い目感情』の拒否」を、良い方向に行くことを指摘した。相手の感情との分離が出来てこそ、「共有」も「拒否」も良い方向に向けることが出来るのではないだろうか。
オフィス・ライフワークコンサルティング
社会保険労務士・CDA 飯塚篤司